しょうないようすい
<基本データ>
名称 庄内用水(惣兵衛川)
種別 農業用水/工業用水
形態 開渠/暗渠
延長 28km(現在)
流域 名古屋市守山区・北区・西区・中村区・中川区・熱田区・港区
<くわしく>
庄内用水は、庄内川を水源とする、名古屋市内最大の農業用水路である。その灌漑面積は広く、北区から西区・中村区・中川区を経て港区に至るまで、名古屋市の北部から西部にかけての庄内川左岸を一手に潤していた。
現存する大江筋・西江筋・中井筋・稲葉地井筋(西井筋)の他に、かつては江川の名で知られる東井筋(辻井筋)と米野井筋があり、全体で6つの井筋で構成されていた。また、水源を一にしていた志賀用水(志賀井筋)や御用水、上飯田用水をこれに加える場合もある。
全体の概要を示すと、まず守山区瀬古の水分橋上流に設けられた庄内用水頭首工で庄内川の水を堰き止め、元杁樋門より取水。その後矢田川を伏越(ふせこし)と呼ばれる暗渠でくぐり、三階橋ポンプ所で黒川(堀川)と分かれて西流する。ここから中村区日比津町の日比津分水地に至る区間を大江筋・西江筋と称し、その境は東井筋(江川)の分水地点だったが、既に埋め立てられている。日比津分水地では、中井筋と稲葉地井筋(西井筋)に分かれ、中井筋は導水路を経て中川区畑田町で荒子川へ注ぎ、稲葉地井筋は宝神水処理センターを経て永徳水路に繋がっている。
庄内用水の通称としてよく使われる「惣兵衛川」は、中井筋を改修したと伝わる下中村の横地惣兵衛に由来するもので、大江筋・西江筋から中井筋へ至る一連の流れの総称である。従って東井筋や米野井筋、稲葉地井筋(西井筋)のことを「惣兵衛川」と称することはない。
庄内用水の流れる名古屋市南西部は、庄内川や古くは木曽川によって運ばれた土砂の堆積により形成された低地帯であり、農業に適した肥沃な土地であった。西区から北区にかけて、西志賀遺跡など弥生時代の生活の跡が発掘されている。小規模な灌漑水路はその頃から存在していたのではないか。流路を東から西に移動させていった庄内川のかつての流路跡や、海岸線の後退や潮の満ち干きにともなって形成された澪筋が、後の用水路や小河川の原形となったと考えられる。
庄内用水は、流域を流れる自然河川や悪水路とともに、用水と排水のネットワークを形成していた。その仕組みは互いの位置関係にはっきり現れている。というのも、熱田台地の西側では、東井筋→笈瀬川・古川←米野井筋→徳左川←中井筋→柳瀬川←稲葉地井筋、という具合に、庄内用水の井筋が担う「用水」と、自然河川や悪水路の「排水」が交互に存立していたのだ。これらは、間に水田や幾筋もの小水路を介在しながら、矢印で示したような関係で結ばれていた。
各井筋についての詳細な内容はそれぞれのガイドに分けて掲載している。以下のボタンからアクセスされたい。
ここからは、時代による流路の変遷を中心に、庄内用水全体の歴史を追っていくこととする。複雑な経緯を出来るだけ分かりやすくするため、7つの章を設定。それぞれの段階における流路を「庄内用水 流路変遷図」で示した。章立ては以下のようにしてあり、これが即ち庄内用水史の概略でもある。
chapter-1 前史
chapter-2 開削、稲生と日比津の定井
chapter-3 川村から大幸川を経由する
chapter-4 大幸川の付替えで水量不足
chapter-5 上流部を御用水と一体化
chapter-6 黒川開削、瀬古の元杁樋門
chapter-7 暗渠化や埋立て、そして今
東井筋(江川)は庄内用水の一部であるが、『堀川 歴史と文化の探索』に「利用の便から人の手が加えられてはいるが、おおむね名古屋台地からの斜面が平坦になるあたりを流れているので、元は自然河川であったと考えられる」とあるように、部分的には、農業用水として使われる以前から自然河川として存在していたのではないかと考えられている。
東井筋は熱田台地の西縁に沿って流れている。台地を穿つ谷からはかつて、紫川や七志水川といった小川が流れ出ていた。また崖下は湧水も多く、特に名古屋城の北側(現在の名城公園の辺り)には「深井(ふけ)」と呼ばれた湿地帯が広がっており、築城当時は防衛の要として、後には御蓮池という大きな池を中心とした「御深井の庭」として活用されていた。それから、外堀の水位も湧水によって確保していた。これらの湧水は後に量が減少したので寛文3(1663)年に御用水を引いてそれを補うことになるが、湧水が枯れたわけではなく、文政8(1825)年の潜水調査(※1)でも堀の底からたえず噴出する冷水が確認されている。そうした豊富な湧水はいずれも堀川に流れ込んでいたが、しかし堀川は江戸時代になってから開削された人工の運河だ。当然、江戸時代以前にも湧水や小川は存在し、何らかの経路を辿って海へ流れていたであろう。そのことを考えたときに、だいたい東井筋の辺りに自然河川が存在していたのではないかという結論が出てくるのだ。
※1:10代藩主徳川斉朝の命で、御土居下御側組同心の森島佐兵衛が1ヶ月にわたって潜水調査を行った。
用水路は水田に水を送るという性質上、周辺の土地よりも高い位置を流れている場合が多い。中村区内の中井筋・稲葉地井筋(西井筋)では特にその傾向が顕著で、これは自然堤防の上を辿るように流路が設定されているためである。用水路自体は当然人間の手で開削されたものであろうが、その下の土地の高まりまでもがそうであるとは考え難い。やはり開削以前のある時期に、後の中井筋や稲葉地井筋(西井筋)に重なる位置に自然河川が流れており、それが自然堤防を形成したと考えるのが妥当であろう。
中村区の名前の由来となった中村(中という名前の村, 中世には上・中・下に、江戸以降は上・下に分かれていた)について、嘉永3(1850)年の『尾張神名帳集説訂考』に「此村むかしは草津川と高須賀川との間に挟まれり、故中村と号く、草津川は後世東宿の西にかはる、高須賀川も今の川にあらず」との記述がある。ここでは、中村の地名は「草津川」と「高須賀川」の間に立地していたことに由来するとしている。
『尾張名所図会』の萱津(かやつ)川の条に「上萱津中萱津下萱津三郷乃東を流るる大川にて則五条川の下なりむかハ草津川ともかけり」とあるから、草津川とは五条川のことである。五条川はかつて庄内川に流れ込んでおり、つまり草津川と庄内川は同一の流れを指すと考えてよいだろう。
「草津川」は後に、中村の西に位置する集落である東宿のさらに西側に流れを移したという。
かつて中村と東宿との間に、河原を有するそれなりに規模の大きな川が存在したことは、地名にも痕跡が残されている。左岸側にあたる中村公園内には中村町(かつては上中村)字「河原」という地名が残っているし、また右岸側にあたる東宿集落の北東にも稲葉地村字「河原」という地名(※2)がかつて存在した。相対する形で存在する両地名の中央に川の流れがあったであろうことは想像に難くない。
※2:寛政(1789年~01年)頃の村絵図では「本田秩父河原」、弘化4(1847)年の稲葉地村絵図では「字ちぶ河原」となっている。
一方、草津川の反対側、つまり中村の東側を流れていたという「高須賀川」に相当する河川は現存していない。しかしその位置には中井筋が流れており、しかも中井筋は下流で中村区高須賀町(かつての高須賀村)を通過している。中井筋の流路は、日比津町から高須賀町の付近までほぼ北から南に延びる微高地上にある。この微高地について『西枇杷島町史』では、五条川の位置に木曽川の分流が流れ込んでいたこと、その時期について「とくに大規模な自然堤防を形成した時期は、12~13世紀のころと考えられる」ことを示した上で以下のように述べられている。
「旧青木・五条川の左岸の自然堤防の延長と考えることもできる点からみて、少なくとも、歴史時代のある時期には、庄内川が同自然堤防の東側、すなわち、中村区中村町と米野町との間の微低地を南下していたこともあったと考えられる」
これに対して、愛知県埋蔵文化財センター『中世萱津を考える』は、『西枇杷島町史』が流路を想定した微低地は「流路の低地部と考えるより後背湿地的性格が強いものと考えられる」としており、微高地上に旧河道と考えられる帯状窪地の水田域が認められることを示した上で、それが「旧庄内川から流れる河川」だったと述べている。またその時期について15~16世紀頃と推定している。
いずれにしても、中井筋が流れる微高地を形成した流れが、『尾張神名帳集説訂考』の「高須賀川」に相当するものとみて間違いないだろう。
中井筋や稲葉地井筋(西井筋)が流れる自然堤防は、かつて庄内川・矢田川の下流部やその支流、さらに木曽川の支流などが様々に河道を変遷させて流れたことで形成されたものだった。庄内用水は、後にその地形を上手く利用しながら開削されたと言うことが出来る。
庄内用水の開削は元亀・天正年間(1570~92)と伝えられている。『愛知郡誌』に「往昔徳川幕府の企封にして元亀、天正の頃尾張侯治水灌漑の便を図り、民利増進の爲め起工したるのものなり」とある。
元亀・天正年間(1570~92)と言えば、織田信長や豊臣秀吉が活躍していた頃だ。江戸幕府はまだ誕生しておらず、『愛知郡誌』の記述は矛盾していてよく分からない。戦国時代には、各地の領主が自国の経済力を高めるために、用水の整備に力を入れていたので、庄内用水もそのような時代背景の中で造られたと推測される。
開削当初の姿ははっきりしないが、後に定井が築造されたとの文脈で出てくる西春日井郡稲生(いのう)村の杁が主な取水口であったと思われる。稲生村から南へは東井筋(江川)がほぼ真っ直ぐ南に向けて開削された。現在の西江筋にあたる区間も非常に直線的で、人工の用水路であることを示している。枇杷島村に至って俄然その流路は紆曲を見せるが、これは庄内川の古堤上に水路を引いたために生まれたものだろう。新水路の開削や、従来から存在した用水や小河川の統合・拡幅、自然堤防や古堤の地形を活かすなどしながら、現在の庄内用水の姿が形作られたと考えることができる。
慶長19(1614)年、稲生村に定井が築造された。「定井」とは川をせき止めて用水を取水する施設(井堰)のことで、「堰」が用水の必要な時にのみ築かれるのに対して、年中取り払わない恒久的な井堰をそう呼んだ。寛永19(1642)年には日比津村にも定井が設けられたが、正保4(1647)年に杁が稲生村に移されて廃止となった。なお、「庄内用水 流路変遷図」における日比津杁の位置はあくまで推定である。庄内川の枇杷島橋より下流に位置し、米野井筋へも送水していたであろうことを考慮した。
正保4(1647)年、熱田新田の干拓がはじまった。南へと拡大される農地に合わせて、中井筋と稲葉地井筋(西井筋)も延伸され、灌漑面積も増大の一途を辿った。それに従い水量の増加が求められたため、慶安3(1650)年に完成した木津用水の水を庄内川を介して流入させることで対応した。
上の図で示したように、稲生村で取水した水が東井筋・米野井筋・中井筋・稲葉地井筋のいずれにも流れ込んでおり、その途中の日比津村でさらに取水していた、というのがこれまでの定説である。しかし、別の考え方も有り得るように思う。すなわち、当初の庄内用水は稲生杁で取水する東井筋と日比津杁で取水する米野井筋・中井筋・稲葉地井筋がそれぞれ分離独立しており(西江筋は存在しておらず)、正保4(1647)年になってはじめて一体のものとなった、という考え方である。
これについては以下のブログで検討している。
寛文3(1663)年、名古屋城外堀の水の確保や名古屋城西側の幅下方面への飲料水供給のため、御用水が開削された。御用水は庄内川の水を川村(現在の守山区川上町)で取水し、瀬古村で一旦矢田川へ流入して対岸で再び取水、南西へ流れて名古屋城に至った。矢田川には、延宝4(1676)年に伏越が設けられた。伏越とは、川底に埋められたトンネル(暗渠)のこと。この水路は、後に庄内用水と大いに関わってくることになる。
(寛文7(1667)年、稲生村に2つあった杁の下流側のものが、西隣する名塚村に移設される。これにより、庄内用水の取水口は、稲生村と名塚村の二か所となる。)
一方、その頃の庄内用水では、次第に堆積する土砂の影響により稲生での取水が難しくなってきていた。そこで寛保2(1742)年3月、稲生の杁も残し置きつつ、約7.7kmも上流の川村での取水を開始した。新たな杁は長さ12間、幅9尺・高さ5尺のものと幅1間・高さ4尺のものの2つで構成されていた。これらは、既に寛文3(1663)年より取水を行っていた御用水のものの東側に新設された。
川村で取水した水を従来の灌漑地域に送るためには、途中で矢田川を越えねばならず、守山村(瀬古村とされる場合もある)と山田村の間に新たに112間の伏越が設けられた。この伏越の位置は正確には分かっていないが、御用水と新たに開削された庄内用水は全く別の経路を辿っており、矢田川の伏越も異なる位置に築造されたものである。
山田村の絵図(江戸時代後期ものであろう)を見ると、矢田川に架かる天神橋の上流に、川を挟んで対面する形で南北に2つの杁があるのが分かる。北側のものは水路部分に「用水通」、南側のものは「掘割」と書かれていて、絵図が描かれた時点ではどちらも矢田川からの取水施設になっている。2つの杁が相対する形で設けられていることから、これが庄内用水の伏越の痕跡である可能性が高いと見ている。
矢田川を伏越した庄内用水の水は大幸川へと流れ込む。大幸川は自然河川であるものの、上流部で矢田川からの取水を行う(※3)など用水路としての側面もあった。大幸川は東井筋(江川)に流入していたので、川村で取水を開始するにあたり、庄内用水が一部区間でその流路を間借りするようになったのだ。下の地図はその概要を示したものであるが、川村から大幸川までの流路(赤の点線)は、不明部分があることから敢えて直線状に描いたもので、実際にこの位置に流路を比定しているわけではない。
※3:尾陽郡村用悪水分見絵図には「上野杁」と「大幸矢田曽根立合」の二つが描かれている。
大幸川が東井筋に合流する地点は稲生よりも南方であるため、そのままでは西江筋やその下流にある米野井筋・中井筋・稲葉地井筋へは通水できない。『尾張徇行記』稲生村の項にある「西井筋先年は児玉村北にて山田より通する前の川村井筋此西井筋へ通せし」という記述から、大幸川が合流する地点から西江筋までを結ぶ水路が設けられていたと考えることが出来る。
従来の稲生村の杁は役目を終えたが、廃止はされなかった。『守山市史』(守山市は守山区の前身)の御用水の項に「稲生村の杁はのこしおき、川村よりくる水にて不足のときはこの杁より助水を通じた」とあるように、渇水時の予備用として残置された。『名古屋歴史ワンダーランド』によると、稲生村にはそれまで3つの杁があり、その内2つが廃止され、長さ18間・幅2間・高さ5尺のものが残されたようだ。
稲生村ではその後、明和5(1768)年に新たな杁が西方に設けられ、従来の杁が廃止されている。
取水位置の変更に伴って新たに開削された上流部の水路の内、川村から矢田川伏越を経て大幸川に流入する地点までの具体的なルートは、現時点ではまだ確証をもって比定できる段階にない。しかし、先述の山田村絵図から伏越の位置が特定できること、また庄内用水の水路が後の時代に別個の農業用水路(六ヶ村用水)として転用された可能性が高いことなどから、地籍図や村絵図の分析を進めることで、いずれ解明することが出来ると考えている。以下のブログでは、川村から矢田川伏越に至る庄内用水の流路について検討している。
『尾張徇行記』の川村の項には以下のようにある。
「稲生用水根元は、先年稲生村に9尺杁三腹ありしか、杁年々砂高になり井道へも砂駆埋、用水摸通さる故に、寛保2戌年川村に新規杁長12間巾9尺高5尺巾1間高4尺2腹伏、井道を立。矢田川守山と山田の間に伏越水筒長112間伏、それより大幸井筋へ落込、稲生井筋へ用水を通せり。」
「尾張八郡図」の内ひとつは、ちょうど庄内用水が川村で取水し大幸川を経て東井筋へ合流していた時期に描かれたもので、川村で取水された用水路が二か所で矢田川と交差している様子が見て取れる。後述するが、庄内用水がこの流路を辿っていた期間は42年間と短いため、同時代の貴重な絵図であると言える。
沿川の灌漑・排水とともに、寛保2(1742)年からは川村で取水した水を庄内用水に送るルートとしても使われていた大幸川。しかし流入先の東井筋(江川)はそもそも農業用水路であるため、排水能力は十分でなかった。大雨などで大幸川の流量が増えると一帯はたちまち水浸しになってしまった。
明和4(1767)年7月12日の大雨では矢田川の堤防が決壊し、その水が大幸川を流れ下って東井筋一帯に水がたまり、深いところで1.5m、数日間も水が引かないというような水害(「亥年の洪水」と呼ばれる)が発生した。
この経験から、天明4(1784)年、水害対策として大幸川の付替えが行われた。新たな大幸川は、御用水の北に沿って開削された新たな水路を経て、名古屋城の西側で堀川の堀留へと流入した。堀川を流入先としたのは、圧倒的に排水能力が高いからである。この付替えをもって東井筋と大幸川は切り離された。
同年には他にも、新川の開削や洗堰の築造など今に繋がる治水対策が行われた。また、このときに開削された大幸川の下流部が現在の黒川の元になった。
大幸川の付替え以降、東井筋沿川での水害は減少したものの、大幸川を経由して送水していた川村からの水が流れ込まなくなったことで、庄内用水では逆に水量が不足してしまった。そのため寛政4(1792)年(※4)、川村で取水し名古屋城のお堀に水を送っていた御用水の水路を2間(3.6m)から5間(9.1m)に拡幅し、御用水と庄内用水を一体化して送水するようになった。
『尾張徇行記』に以下のようにある。
「寛政2戌年河村御用水江通りを巾5間にひろけ、別に巾2間の杁を伏、御用水と用水とを兼ね通し、瀬古村米ケ瀬に於て立切を以て用水を分流し、小僧庵の堤下を三郷へ掘通し、福徳村と稲生村との間にて、矢田川を伏越水筒2腹にて稲生村東の方へ通し、夫より西井筋へ掘通になり、又東井筋へは巾9尺の杁を以て用水を分流する也。」(※4)
※4:先述の寛政4(1792)年という情報は『タウンリバー庄内用水』に拠るものであるが、『尾張徇行記』には寛政2(1790)年とあり、また『名古屋市 庄内用水路』には寛政3(1791)年とある。どれが正しいのか現時点では判断できない。
御用水と庄内用水は、瀬古村に至り、御用水が矢田川の下へと潜り込む少し手前で二手に分かれていた。下の図は瀬古村、現在の守山区瀬古を描いた天保12(1841)年7月の絵図に加筆したものである。赤で示した庄内用水兼御用水の水路が図中で二手に分かれ、御用水は矢田川を伏越して名古屋城へ、庄内用水は矢田川の北を西流しているのが読み取れる。また、青で示した八ヶ村悪水(古川)が分水地点の下流側で庄内用水に流れ込んでいる。これは、名古屋城外堀の水源であるとともに飲料水としても使われる御用水に、八ヶ村悪水を流れる排水が流入することを回避するための工夫である。
瀬古村にて御用水と分かれた庄内用水は、成願寺村で庄内川に流れ落ちていた八ヶ村悪水(古川)の水路を途中まで利用しつつ、新たに開削された水路で成願寺・中切・福徳(これらの村は庄内川と矢田川に囲われて輪中を形成していたので、川中三郷と総称された)の村内を西に流れた。その後、福徳村から稲生村にかけて矢田川を幅2間(3.6m)の伏越で越え、西流して従来の庄内用水に接続した。
下の図は稲生村、現在の西区稲生町を描いた天保12(1841)年10月の絵図に加筆したものである。矢田川伏越の南側が詳細に描かれている。『尾張徇行記』に「矢田川を伏越水筒2腹にて稲生村東の方へ通し」とある通り、伏越は2つの水筒の並列で構成されていたことが分かる。また、『尾張名所図会』にも「78尺の大杁を二筋埋め伏せたる長杁なり。其大造りなる事他に比類少し。」と記されている。
絵図からは、矢田川堤防と一体化した形で伏越の出口を囲む、四角い堤防も見て取れる。これは桝形(または杁枡堤)と呼ばれるもので、伏越が万一破損した場合に洪水を防げるよう、二重の堤防を築いたものである。桝形は昭和5(1930)年に矢田川が現在の位置に付替えられたことでその役目を終え、その後の開発で失われた。しかし現在も桝形町として地名に名残があるし、また道路形状にもその面影を見ることが出来る。
航空写真は昭和13(1938)年頃(正式には撮影年月日は不明とされている)に陸軍が撮影したものである。既に矢田川は新流路に移っているものの、まだ旧流路にも水が溜まっており旧態を留めている。左岸堤防に附属して、稲生村絵図に描かれたものと全く同じ桝形がはっきりと見て取れる。
川中三郷に新たな庄内用水の水路が開削され、稲生村に伏越が設けられたのと同時に、庄内用水から真っ直ぐ南流し大幸川に接続する三郷悪水という排水路が掘られた。
三郷悪水は庄内用水の余剰水を排水するバイパスの役割を果たした他、庄内川・矢田川という天井川に囲まれて排水不良に悩んでいた川中三郷の排水路としての役割も果たした。上の稲生村絵図からは、矢田川伏越の南で庄内用水と三郷悪水が分水されており、三郷悪水方に樋門が設けられていたことが分かる。これの運用について、「川中悪水増水の場合開扉、黒川に放水し他は閉鎖のままとす」と『名古屋市 庄内用水路』に記されている。(「黒川に放水」とあるが、黒川と大幸川は同じものである。)
三郷悪水はまたの名を六段地江と言う。『金城温古録』の「御深井御山之内細見」では「六反地悪水落」、『御深井御用水程全圖』では「六丹寺川」となっているなど、表記にゆれがある。三郷悪水の流れる西志賀村に字六反地(ロクタンジ)という地名があったことから、これらの名称はいずれも同地名に由来し、そこから派生したものと考えられる。
明治10(1877)年に黒川が開削された。
黒川の開削は、愛知県土木課の黒川治愿(はるよし)技師によって建議され、明治9(1876)年11月に着工、翌10(1877)年10月に完成をみた。
治愿が立案した計画は、新木津用水(※5)の拡幅により春日井原での水不足を解消し農業の振興に供するとともに、庄内川からの新たな取水施設を瀬古村に設けて水路を開削し、矢田川を伏越して大幸川まで接続するという壮大なものだ。これは、新木津用水から八田川を経由して庄内川へ流れ込む木曽川の水を堀川に至らしめることで、犬山から名古屋の中心部、そして熱田港までを舟運で直結するという計画であった。
「尾張のかんがいを利し、名古屋の運輸を便にするは、木曽川の流水を利用すべし、これを利用せんには木津、庄内の二用水を改修して水脈を通じしかして堀川に連絡せしむにしかず」(『名古屋市 庄内用水路』より)と工事報告書をまとめている。
※5:春日井原(現在の春日井市の西半分)に残された広大な原野を開拓するため、木曽川から取水する木津用水を丹羽郡荒井村より分水したもので、寛文4(1664)年に完成した。流末で八田川に合流する。
黒川の開削はこの計画の一部かつ最も重要な工事であった。そしてもうお察しだろうが、黒川の名はその建設に貢献した黒川治愿から取られたものである。
黒川が開削されたことで庄内用水の経路は大きく変わり、現在まで続く用水の姿が形作られた。
明治10(1877)年10月10日、庄内用水の水源は、上流部が一体化されていた御用水ともども、瀬古村に新たに設けられた「庄内用水元杁樋門」に移った。元杁樋門から矢田川北岸へは真っ直ぐに水路が開削され、矢田川には、従来の御用水の伏越と同じ場所に、木造・長さ565尺2寸(171m)の伏越が並行して設けられた。2本の伏越の内、上流側の東杁は元の御用水のものと同程度の規模だったが、下流側の西杁は舟の通航ができるよう高さ3.1幅12尺6寸(3.8m)・幅10尺3寸5分(3.1m)と断面が大きくなっていた(※6)。伏越内の壁には鎖が取り付けられており、それを手繰りながら暗いトンネルを進んだという。
※6:この数値は明治25(1892)年の改築後に記録されたものであるが、当初の伏越も大きな違いはないだろうと考えられる。
伏越の出口には巨大な桝形(または杁枡堤)があった。これは御用水の時代から存在したもので、稲生村の伏越と同じく、万一の場合に洪水を防げるよう二重の堤防を築いたものである。伏越が木造だったので強度が弱く、腐朽して川底に穴が開く事態にも備える必要があったのだ。水は矢田川、そして桝形をくぐり抜けて南にある三階橋貯水場(※7)に流入した。
※7:この呼称は『名古屋の川と橋』に拠るものである。
貯水場から西方には、三間樋を通じて庄内用水大江筋が分水され、そこから矢田川の南側に沿って開削された新水路を流れて稲生村で従来の井筋へ接続した。貯水場から南方には黒川樋門を通じて黒川が分水され、そこから御用水の北側に並行して開削された新水路を流れて大幸川へ流入せられた。この開削に由来する「新堀町」という地名が沿川にある。大幸川の下流は天明4(1784)年の付替えで堀川堀留へと繋がれていたので、それをそのまま活用して黒川の下流部とした。結果として大幸川は、黒川の一支流という恰好になった。
貯水場からは他に、御用水や志賀用水、上飯田用水と各方面への分水が設けられた。この三階橋貯水場が後に「天然プール」と呼ばれるようになる。
御用水と共用していたかつての上流部は、庄内用水のネットワークからは外れた。しかし、寛文3(1663)年の御用水開削以来の歴史あるその水路は「郷合川」と統合され、新たに八ヶ村用水として蘇った。「郷合川」は名古屋市が設置した「八ヶ村用水由来碑」に名前が出てくる川であるが、これはおそらく六ヶ村用水と同一のものだろう。六ヶ村用水は、同じく川村で取水していた寛保2(1742)年から天明4(1784)年までの庄内用水の水路を転用したと考えられる農業用水路だ。
なお、八ヶ村用水に関する考察は以下のブログなどで行っている。
また、六ヶ村用水の流路や名称については以下のブログで書いている。
矢田川の北、川中三郷(成願寺・中切・福徳)を流れていたこれまでの庄内用水本流は、上流と切り離されて水源を失った。しかし、輪中である川中三郷にとっては排水上の大切な水路だったので存置され、矢田川の伏越も2つの水筒の内1つが残された(※8)。その後は専ら排水路として、名称も庄内用水以南のバイパスについていた「三郷悪水」の名称が上流部に対しても使われるようになる。
※8:この伏越について、明治44(1911)年発行『庄内用水元樋及矢田川伏越樋改築記念』に「今現に一門の樋管を稲生地内に存するものは三郷悪水放流の用に供する為めなり此悪水樋と共に埋設しある伏越樋は黒川開鑿及庄内用水路変更当時に於て共に廃滅に帰したり」とある。
川中三郷への灌漑用水は、輪中の東端にある「成願寺杁」で庄内川より取水されており、これが明治26(1893)年発行の旧版地図にも描かれている。
成願寺杁については以下のブログで詳しくまとめている。
以上に述べたような、黒川の開削とそれに伴う瀬古村への取水口および伏越位置の変更、伏越から矢田川の南に沿って稲生村へ至る新水路の開削、そして上流部の八ヶ村用水への転用によって完成された明治10(1877)年以降の庄内用水の全体像を示すと以下のようになる。
明治24(1891)年10月28日に濃尾地震が発生、元杁樋門と矢田川伏越が被害を受けた。それらは翌25(1892)年に再び木造で改築された。しかし江戸時代と変わらぬ木造の伏越では、耐久性が弱く次第に腐朽するのを避けられない。その後およそ15年を経て、元杁樋門と矢田川伏越を人造石で改築する計画が持ち上がった。まず明治41(1908)年3月、庄内用水普通水利組合から愛知県に対し「従来木樋なりしを以て、今回腐朽大破におよび到底使用に耐えかねるをもって土木費補助を要望する」との申請を行った。この要望は却下となり、再び10月にも申請するがそれも却下。翌42(1909)年10月にようやく許可され、「庄内用水元杁樋菅改築工事」として同年12月18日に着手された。
まず元杁の改築が先行して進められ、これは明治43(1910)年6月20日に竣功を迎えた。
「元杁樋は七尺二門の搆造にして樋管の長は共に九十九尺三寸内法高中央十尺五寸樋の前面に二個の釣戸を設置し開閉に便にす樋の敷張はコンクリートとす左右の側壁及甲蓋は素角石にして間塲モルタルを用い搆造せしものなり」(『庄内用水元樋及矢田川伏越樋改築記念』より)
次いで明治43(1910)年7月30日に伏越の改築が着手され、これは翌44(1911)年5月30日に竣功を迎えた。
「伏越樋は内法高中央八尺五寸にして長五百六十五尺二寸なり人造石暗渠製搆造とす」(『庄内用水元樋及矢田川伏越樋改築記念』より)
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「万代不朽を期し百年の長計を企圖」(『庄内用水元樋及矢田川伏越樋改築記念』より)したこの改修によって、矢田川伏越は頑丈な人造石へと生まれ変わった。そのため、これまで伏越の出口に設けられてきた桝形は必要なくなり、従来よりも貯水場が大きくなった。いわゆる「天然プール」の誕生である。
「石積みの護岸に囲まれ、庄内川から流れてきたきれいな白砂が水底に積もり、岸には松の老木もある」(沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」より)と書かれたように、絶好の水泳場となったこの地は、毎夏、大勢の子供達が集まり賑わいを見せた。庄内用水大江筋に繋がる三間樋の下をくぐったり、矢田川伏越にを通って守山側へ抜けたりと、水泳のみならず用水の設備をいろいろ活用して遊んでいたようだ。しかし、樋門と川底の隙間はとても流れが速く、何人もの子がくぐり損ねて亡くなった。そういう子らを弔うために建立されたお地蔵様が、今も現地で供養されている。
後述するように、昭和30(1955)年代になると水源である庄内川の水質が悪化したため、天然プールで泳ぐ人はいなくなった。その後、昭和52(1977)年に三階橋ポンプ所が建設される際、埋め立てられて姿を消した。黒川樋門の上屋も昭和53(1978)年に一度取り壊されたものの、昭和55(1980)年になって復元され、今に至っている。
明治37(1904)年における庄内用水の灌漑面積は、3908.1ヘクタールに及んだ。用水は、網の目のように張り巡らされた水路に引き入れられ、多くの田畑を潤した。この頃が庄内用水の最盛期であったと言える。
大正時代になると耕地整理組合が盛んに設立されるようになった。以下の図は、名古屋市内で実施された耕地整理の組合設立日及びそれから換地処分までの期間を示したものである。明治38(1905)年の下之一色耕地整理組合に始まり、昭和5(1930)年の川中耕地整理組合に至る計33組合が設立された。
耕地整理は「土地ノ農業上ノ利用ヲ増進スル」(耕地整理法より)ことを目的としたもので、大正4(1915)年から大正7(1918)年にかけては庄内用水でも灌漑面積の増加が見られる。しかし、大正7(1918)年までに換地処分が済んでいた組合は江西耕地整理組合のみであるため、因果関係があると断言することは出来ない。名古屋市における耕地整理では「将来の都市化を前提として、道路等の公共施設を整備し、市街地の基盤をつく」(名古屋市ホームページより)ることに主眼が置かれており、それによる影響はむしろ、市街化を進展させたことによる灌漑面積の減少の方が主であった。
庄内用水からの分水の多くは耕地整理によって大きく流路を付け替えられた。しかし各井筋においては、蛇行が直線化された例はあれど、全体として大きな変動はなかった。
大正時代以降、名古屋市の発展に伴って市街地は拡大の一途を辿った。肥沃で広大な水田を従えた庄内用水流域の農村にも市街化の波は押し寄せ、宅地が開発され、大工場が進出した。昭和5(1930)年には矢田川の流路が付け替えられ、川中三郷(成願寺・中切・福徳)の輪中が解消された。
庄内用水の灌漑面積は漸減を見せる。明治から戦後にかけての灌漑面積の変化を示したのが以下の図だ。図から解するに、大正7(1918)年より減少に転じ、大別して戦前期と戦後期の二度に亘り特に大きな減少があった。戦前期は先述した耕地整理の実施が、戦後期は更なる土地区画整理の実施と急激な人口増加が背景にあると考えられる。
城下町のすぐ脇を流れていた東井筋(江川)の中流部は、早い段階で市街地に取り込まれた。東井筋があるために全ての道路に架橋が必要だったり、また道路保全のために護岸の整備が必要だったりと負担が大きく、大正中期には江川廃止問題が取り上げられるようになった。また大正11(1922)年には沿川の西区花車町(現在の中村区名駅)の住民らから市会に対し、「暗渠若クハ其他ノ方法ヲ以テ道路トシテ利用スベキ具體的設計ヲ建テ」ることを求める請願書が提出された。当時は下流部に依然として水田が存在していたため、灌漑の必要上埋め立てることは出来ず、昭和6(1931)年度より三ヶ年度継続の江川幹線下水道築造事業によって浄心より山王までを暗渠化することで、問題は解決をみた。同時期には、庄内用水流域で排水を担っていた笈瀬川と大幸川が下水道幹線として暗渠化された。
農業用水路としての(庄内用水の井筋としての)東井筋への送水が具体的にいつまで続いていたのかは不明であるが、昭和13(1938)年頃には既に排水路としての役割が主になっていたと考えらえる。その後、都市化が進み不要となった上流部から次第に埋立てが進み、昭和30(1955)年代に全部が廃止された。
耕地整理が実施された際、中井筋や稲葉地井筋(西井筋)ではその両側に側道が整備されたが、米野井筋では全くその存在を無視したような道路区画がなされた。これは、後に米野井筋を埋め立てることが前提となっていたからではないかと思われる。中井筋や稲葉地井筋のように中川区から港区に至るまで南部に広大な灌漑面積を有してた井筋と、比較的短く、また早い段階で市街地に取り込まれることが予想できた米野井筋とで、その対処に差が出たのだろう。米野井筋は古川と流路を一体化するなどし、下流部は昭和20(1945)年代に、古川として転用された水路は最終的には昭和30(1955)年代までに埋め立てられた。
三郷悪水は、庄内用水以南の区間が昭和初期に暗渠化された。かつて庄内用水の本流でもあった以北の区間は長らく開渠のまま残されていたが、平成5(1994)年に暗渠となった。また、庄内用水と水源を一にしていた上飯田用水は昭和30(1955)年代に埋め立てられた。御用水は昭和47(1972)年に、志賀用水(志賀井筋)も同時期に姿を消している。
一方、庄内用水は現役の農業用水路でもある。庄内用水の井筋の内、現存しているのは大江筋・西江筋・中井筋・稲葉地井筋(西井筋)の4つだ。中井筋と稲葉地井筋(西井筋)が灌漑していた中村区から港区にかけて広大な水田地帯は、市街地から遠く、開発の波はなかなか到達しなかった。昭和38(1963)年の航空写真でも、特に荒子川以西のエリア(稲葉地井筋(西井筋)の灌漑エリアと重なる)は区画整理も未実施で、それこそ江戸時代から何も変わらないままであったことが見て取れる。その後はやはりこのエリアも市街化が進んだのであるが、今も僅かに水田が残っており、庄内用水がその灌漑を担っている。
昭和33(1958)年からは工業用水としても利用されている。その取水口が西区東岸町にあり、西江筋には4連の水門が設置され、児玉浄水場へ水を取り入れている。名古屋市上下水道局では、工業用水として庄内川表流水1.157m3/sの水利権を有しており、庄内用水を介して庄内川の水を取水しているという形だ。供給範囲は北区および西区である。
庄内川では、昭和29(1954)年の王子製紙春日井工場の進出を始めとする工場の廃水流入等が原因となって水質が著しく悪化し、その水を引く庄内用水においても水質悪化による悪臭が漂うようになった。『名古屋市 庄内用水路』には「どす黒い水の色ではかっての夏の風情もどこえやら、市民よりこのような用水路は埋めてしまえを始めとする苦情が多発した」とある。
そうした状況を踏まえ、昭和48(1973)年から中村区内を中心として、悪臭対策も兼ねた中井筋・西井筋(稲葉地井筋)の暗渠化が開始された。当初の暗渠は、ほとんどが下の写真のようなコンクリート蓋をかけただけの構造である。唯一、稲葉地井筋(西井筋)の岩塚本通付近から中村区野上町に至るまでの区間は、はじめから道路用地として二車線道路に取り込まれた。その他の区間では、1990年代以降の整備に伴って緑道や二車線道路に再整備され、蓋暗渠は次第に撤廃されていった。
令和4(2022)年現在、暗渠化当初のままの姿で蓋暗渠が残るのは、中井筋の中川区松葉町内の区間のみになった。同じく中井筋の日比津分水点より外堀通までの区間は平成27(2015)年まで、稲葉地井筋の中村区小鴨町付近の区間は平成31/令和元(2019)年まで残っていたが、いずれも整備されて失われた。特に中井筋については、遊歩道として整備されるわけでもなくただの道路になってしまったのが非常に残念である。
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北区・西区では、沿川に整備された散策路や植栽帯、東屋などが魅力ある個性的な地域づくりとして認められ、昭和62(1987)年、建設省「手づくり郷土賞-水辺の風物詩」に選出。中村区内でも中井筋の暗渠上に「中井筋緑道」が整備されるなど、人々の憩いの場として新しく生まれ変わろうとしている庄内用水の姿がある。これからも、これまでの役割とともに、数少ないうるおいのある水辺のひとつとしての存在感を発揮していくことだろう。いつまでも用水の流れが途絶えないことを願っている。
作成 2018/10/30
更新 2020/02/07、2021/02/28、2022/01/22、2022/02/25
参考文献
尾張徇行記/樋口好古
尾張神名帳集説訂考/津田正生
尾張名所図会
庄内川の今と昔を探る
庄内用水元樋及矢田川伏越樋改築記念
タウンリバー庄内用水/名古屋市
中世萱津を考える/愛知県埋蔵文化財センター
中村区の歴史/横地清
名古屋市史地理編
名古屋市 庄内用水路/松田勝三
名古屋の川と橋
西枇杷島町史
秘境 名古屋城御土居下物語
堀川 歴史と文化の探索/伊藤正博, 沢井鈴一
守山市史
資料
江川用水路暗渠道路化陳情書/市政資料館蔵
尾張国町村絵図
地図・空中写真閲覧サービス