八ヶ村用水について(導入篇)

八ヶ村用水というのは、いつからある用水なんだろうか。

明治10年に瀬古で取水する黒川が開削されて、庄内用水及び御用水の水源が変わった。それまで取水していた川村から瀬古村に至る上流部の水路は不要となったわけだ。この不要となったその水路を守山区内のみでの農業用水路として再利用したものが八ヶ村用水だ、とこれまで思っていた。

 

先日、堀川文化探索隊のⅠ氏(著書やHP「名古屋歴史ワンダーランド」などで大変お世話になっている)とメールでやり取りする機会があり、その中で八ヶ村用水についても話題に上がり、様々なことを教えていただいた。その中で気付かされたのは、「明治10年以前から八ヶ村用水は存在していた」ということ。川村には庄内川からの杁が2つあって、西側が御用水及び庄内用水のもの、そして東側が八ヶ村用水のものであった。これは村絵図にも描かれているが、東側の杁からの用水路には「□ヶ村用水」とあって、初めの文字がよく読み取れない。Ⅰ氏は、これはおそらく「八」ヶ村だろうとされている。

現在川村にある杁は1つだけである。耕地整理の際に、御用水及び庄内用水の流路と、八ヶ村用水の流路とが統合されたからだ。耕地整理がいつ行われたのかはまだ調べていないが、戦前であることは確かだ。しかし明治10年の黒川開削からはいくらかタイムラグがあるはずであり、その間は旧御用水と八ヶ村用水とが別々に存在していたということになる。双方の流路がそれぞれどう流れていたかというのは現時点では全く分からない。地籍図(愛知県公文書館にある)を読み解く必要があるだろう。

江戸時代の川村絵図。2つ杁があり、東側が「□ヶ村用水」
江戸時代の川村絵図。2つ杁があり、東側が「□ヶ村用水」

 

同時に、地籍図によって解き明かさねばならないことは、庄内用水と八ヶ村用水との関係である。ここまでの話のように御用水と庄内用水とが同じ流路を使用して送水するようになったのは寛政4(1792)年からであり、それ以前、庄内用水の取水位置が稲生村から川村に移った寛保2(1742)年からの42年間は、庄内用水の流路は御用水とは全く別に存在していた。

川村から山田村に至り、矢田川を伏せ越して大幸川へ流入するというルートだ。このルートが具体的にどこを流れていたのかということも全く分からないので、地籍図を調べる必要があるのだが、その中で気になるのは、この短い期間だけ使用された庄内用水の流路が後に八ヶ村用水になったかもしれないということだ。双方が特に上流部においては同一のものである可能性があるのだ。

 

ここで考えておきたいのは、そもそも八ヶ村用水の「八ヶ村」とはどの村々を指すのだろうかということである。名古屋市の建てた「八ヶ村用水由来碑」によれば、川村、牛牧、大森垣外、大永寺、金屋坊、守山、幸心、瀬古の8村であるようだ。つまり矢田川以北の平地にある村、全てである。しかし先述のように、川村には2つの杁があって、西側は御用水のものであった。御用水は農業用水としても利用されており、その流路の詳細は分からないにしても、川村から瀬古村へ至るまでの流域を灌漑していた。その御用水の東側で取水する用水が、果たして瀬古村までを含む八ヶ村すべてを灌漑することは出来ただろうか。

八ヶ村用水という名前はいつ生まれたのか、というのをはっきりしておかなければならない。

そこで考えられるのは、①御用水の開削(寛文3(1663)年)以前から川村で取水する農業用水が存在しており、その用水が8村を灌漑する「八ヶ村用水」であって、御用水開削後もその名前が使われた。或いは②明治10年の黒川開削以降に、旧御用水と東側の杁で取水する農業用水とを併合した際に、はじめて8村すべてを灌漑する用水路となり「八ヶ村用水」と名付けられた、とも考えられる。由来碑の文章は、今読んでみると、後者の説も考えられるような言い回しだ。「八ヶ村用水は、明治9年の取水位置の変更により廃止された御用水の上流部の水路と郷合川の水源を伏せて川村〜瀬古の八村の灌漑を受け持つ水路となった。八ヶ村用水という名称はここに由来するといわれる」とある。用水が8村の灌漑を受け持つように「なった」のであり、そのことが名称の由来だとしているのであるから、そのままに受け取れば、明治以降の命名であると捉えることも出来そうだ。

八ヶ村用水の直上にある由来碑
八ヶ村用水の直上にある由来碑

 

私が書いているこの文章のはじめの方とで、「八ヶ村用水」という言葉の意味が変わってきてしまっていて、後から読んで非常に分かりずらくなってしまっている気がする。前半、八ヶ村用水は明治以前も存在していたと言っているのに、明治以降の名称なのではないかという話が出てきてしまった。つまり、農業用水として、御用水及び庄内用水のものと別に、川村にもう1つ杁があり水路があった。これは事実であり、前半では(Ⅰ氏を含めこれまでは)この用水を「八ヶ村用水」と呼んできたが、もしかしたら八ヶ村用水という名称については、明治以降、その農業用水と旧御用水の水路とが併合された後のものである可能性があり、明治以前に存在した農業用水は「八ヶ村用水」ではなかったかもしれない、という話である。

碑文の郷合川というのが何を指すのかこれまで全くわからなかったし、今も他でこの名前を目にしたことは無いのだが、もしかしたら、川村で取水していた農業用水を指しているのかもしれない。しかし、村絵図には「□ヶ村用水」と書いてある。□に何が入るのか、八で無ければ何が入るのだろうか。絵図は「尾張国町村絵図」という本に収録されているのだが、若干画質が悪い。しかしよく見てみると、「六」に見えなくもない。原本は徳川園の蓬左文庫にあるから(直接閲覧出来るのかは知らないが)、一度尋ねてみてもいいかもしれない。

もちろん、先述の①の説に基づけば□の位置には「八」と書いてあっても何らおかしくは無い。①の説に基づいた場合、その水路は御用水の開削より前から存在していたことになり(当然、稲作は弥生時代からはじまっているわけであり、どのような形態であったかは置いておいて、何らかの農業用水は存在していたと考えるのが普通だろう)、それが御用水の開削に伴って再編されているはずだ。

Ⅰ氏は、御用水を農業用水として利用しているのは、もともと灌漑を目的としている訳ではなくて、御用水の開削により従前の水路網が分断された結果、必要のある地区にのみ分水を設けたのだろうとしている。(「尾張徇行記の記載を見ると、御用水開削後に開かれた新田は極めて少ない。この事から、農業振興を主な目的にして配水したのではなく、開削以前からあった農業用水の配水系統が御用水の開削によって分断され、配水できなくなったところへ水を送るという補償工事的な意味合いが強いと考えられる。」)

さらに言えば、後に開削された川村から山田村、大幸川に至る庄内用水の流路は、かねてより存在していた水路を改修したものだったかもしれない。庄内用水が具体的にどのようなルートであったか、またそれが後の□ヶ村用水(郷合川?)と同じ流路なのか、やはりこの辺りは地籍図を読み解く必要がある。

 

ここ数日で八ヶ村用水に対する理解と興味は格段に深く大きくなった。様々なことを詳細にご教授いただいたⅠ氏には本当に感謝している。直接ご連絡できてやり取りできたことは、これ以上ない幸せなことである。氏のサイト「名古屋歴史ワンダーランド」はかつて自由研究の際も参考にしたサイトであり、私にとっては、庄内用水などについて調べる上での入口、道標となった存在であった。そのこと含め、心より感謝申し上げたい。

 

 

追記

□ヶ村への追伸=気付き!