三郷悪水

三郷悪水の流路
三郷悪水の流路

<基本データ>

名称  三郷悪水

別称  六段地江、三郷用水など

種別  悪水路

形態  暗渠(下水幹線)

延長  

流域  名古屋市北区・西区

 

<くわしく>

矢田川と庄内川に囲まれ輪中を形成していた川中三郷からの排水を目的として、寛政4(1792)年、庄内用水と大幸川(現在の堀川)を繋ぐ形で開削された排水路である。三郷悪水の別称である六段地江は、他にも様々な表記がなされており、例えば『金城温古録』の「御深井御山之内細見」では「六反地悪水落」、『御深井御用水程全圖』では「六丹寺川」となっている。これらの名称はいずれも、西志賀村にあった字六反地(ロクタンジ)という地名に由来し、そこから表記が派生したものと考えられる。

 

三郷悪水は大きく分けて二つの区間に分けることが出来、一つは庄内用水から黒川まで、一つは庄内用水以北の区間である。本稿では便宜上、前者を【南】、後者を【北】として指し表すこととする。寛政4(1792)年当初、三郷悪水との名で呼ばれたのは【南】のみであった。それは、現在の【北】にあたる水路が、当時は庄内用水の本流だったからである。以下、三郷悪水成立の経緯と、庄内用水流路の変遷について順を追ってまとめた。


庄内用水の流路変遷と三郷悪水成立の過程

三郷悪水が造られたのは寛政4(1792)年のことだ。しかし元を辿ると、そのきっかけは天明4(1784)に行われた大幸川の付替えにあることが分かる。


大幸川は熱田台地の北側一帯の低地の排水を担っていた川だ。台地上からの支流や、流域に湧く矢田川の伏流水などを集めて西流し、庄内用水東井筋(江川)に注いでいた。


また、その頃の大幸川は、流域の排水を担うという本来の役割に加えて、庄内用水の経路の一部としても使われていた


(一部、修正中につき文章が乱れています)


どういうことか。そもそも庄内用水は元亀・天正年間()に開削された農業用水路で、以来稲生村を中心に取水を行ってきた。しかし砂堆積、年にキロ上流の川村に取水口を移すことになった。この際川村からーに新たなーが開削され、伏越、大幸川に流入してーという、経路が取られたのだ。


 

川村(守山区)で庄内川から取水した水が、矢田川を越えて大幸川に流入。そして下流の庄内用水の各井筋へと水を運んだのだ。

しかし、大幸川は本来河川。例えば大雨が降れば、そこには大量の水が流れ込むことになる。流入先のひとつ、庄内用水東井筋(江川)は容量が小さかったため、大幸川の水量が増えるたびに水が溢れ、用水沿いでは水害がたびたび発生していた。

天明4(1784)年に大幸川が付け替わる前の流路図
天明4(1784)年に大幸川が付け替わる前の流路図

このため、大幸川を庄内用水から切り離し、より容量が大きく排水能力の高い堀川に流れ込むよう、付け替えが行われた。天明4(1784)のことである。この時開削された大幸川と堀川とを結ぶ川が、現在の黒川の前身である。

 

これにより東井筋(江川)流域での水害は減ったものの、大幸川を経由して流れてきていた水の流入がなくなったことで、庄内用水では取水口が稲生のみとなり逆に水量が不足するようになった。

そのため寛政4(1792)年、川村で取水し名古屋城のお堀に水を送っていた御用水の水路を巾5間(9.1m)に拡幅し、御用水と庄内用水を合わせて送水するようにした。矢田川の北、瀬古村で御用水と分かれた庄内用水は、一部区間は従来からあった水路(八ヶ村悪水)を利用しつつ、新たに開削した水路で東から成願寺・中切・福徳の村内を西に流れた。この3つの村のことを特に三郷と呼ぶ。

 

当時の矢田川の流路は現在と違っていて、下の地図で示したように先述の三郷の南側を流れていた。つまり、この三郷のあるところは庄内川と矢田川に囲まれた輪中になっていたというわけだ。庄内用水の新たな流路は、共に天井川である2つの河川に挟まれて排水不良に悩んでいた三郷にとって、その役割を果たしてくれる大切な水路となった。

水路は三郷を西へ流れた後、福徳村と稲生村の間の矢田川を巾2間(3.6m)の伏越で越え、従来の庄内用水に接続した。

 

このとき同時に、庄内用水が矢田川を越えた地点からまっすぐ南に大幸川(後に黒川となる部分)まで続く水路が掘られた。

この水路は庄内用水の余剰水を排水するバイパスとして使われたが、特に上流の三郷(成願寺・中切・福徳)からの排水を流す役割を果たしたため「三郷悪水」と呼ばれた

大幸川は堀川へ、庄内用水は川村取水に、そして三郷悪水の誕生
大幸川は堀川へ、庄内用水は川村取水に、そして三郷悪水の誕生

明治10(1877)年、三郷悪水を含む庄内用水全体のネットワークは大きな転換点を迎えた。黒川の開削である。

これによって庄内用水は経路を大きく変えることになる。

 

まず取水位置。黒川開削以前までは御用水とともに川村で取水していたのが、新木津用水と庄内川の合流地点近くの高間へと移動。この高間というのは後に瀬古村、現在の守山区瀬古となるので、「瀬古で取水」と言ったほうが分かりやすいかもしれない。

 

そして矢田川を越える伏越の位置も大きく変わった。以前は御用水と分かれた後、矢田川の北に沿って三郷を西に流れていた。そうして福徳村と稲生村の間で矢田川を越えていたのが、黒川、御用水とともに、瀬古村で越えるように付け替えられた。位置的には、元々御用水が矢田川を越えていた地点になる。

 

伏越の位置が東へと移ったことで、矢田川の北、三郷(成願寺・中切・福徳)を流れるかつての本流は庄内用水としての役割を失い、もっぱら排水路として使われるようになった。そしていつしか、矢田川以南のバイパスに付いていた「三郷悪水」という名前が上流でも使われるようになった。輪中で排水に苦悩していた川中三郷の水を排水するため、三郷悪水は依然大切な水路であった。

明治10(1877)年、庄内用水の流路が変わり、かつて本流だった矢田川北の水路も「三郷悪水」と呼ばれるように
明治10(1877)年、庄内用水の流路が変わり、かつて本流だった矢田川北の水路も「三郷悪水」と呼ばれるように

昭和5(1930)年、矢田川の流路が付け替えられた。

三郷(成願寺・中切・福徳)の輪中は解消された。と同時に、新しい矢田川の流路によって三郷悪水は大きく分断されることとなり、上流瀬古村での庄内用水との接続を絶たれた。こうして出来上がったのが、水源を持たない、つまり単純に排水路としてのみの役割を果たした、最終的な三郷悪水の流路である。

下の地図は、矢田川付け替え前後の旧版地図に三郷悪水(青)と庄内用水(赤)の流路を加筆したものである。

 

昭和5(1930)年、付け替え前の矢田川
昭和5(1930)年、付け替え前の矢田川
昭和25(1950)年、付け替え後の矢田川
昭和25(1950)年、付け替え後の矢田川


暗渠化と今

大正時代以降の下水道整備に伴い、庄内用水以南の南北の水路は昭和一桁台という比較的早い時期に暗渠化され、下水幹線になった。

一方、庄内用水以北の東西の水路はその後も長く、雨水を集めやすい開渠として残っていた。しかし、福徳ポンプ所や福徳雨水調整池の完成による排水能力の強化に従い、平成5(1994)年に暗渠化され下水幹線に。地上部分は2車線の道路になってしまったものの、歩道に沿ってせせらぎが整備されており、かつて三郷悪水が流れていたという記憶を留めてくれている。

始点。奥は矢田川の堤防
始点。奥は矢田川の堤防
さらり流れるせせらぎ。右の石積みは旧矢田川堤防上の名残
さらり流れるせせらぎ。右の石積みは旧矢田川堤防上の名残
黒川へと接続する「三郷ゲート」
黒川へと接続する「三郷ゲート」

庄内用水をめぐる複雑な流路の変遷の末に生まれた三郷悪水。こうして地上からは姿を消してしまったが、今もそしてこれからも陰ながらその役割を果たし続けていくことだろう。


庄内用水全体の流路の変遷

庄内用水全体のネットワークを追ってはいるが、三郷悪水の成立についても時系列でより視覚的に追うことが出来ると思う。


作成 2020/02/06 

最終更新 2020/04/16

参考 御深井御用水程全圖

   タウンリバー庄内用水

   名古屋歴史ワンダーランド

   堀川 歴史と文化の探索