ふるかわ
<基本データ>
名称 古川
種別 悪水路
形態 埋め立て
延長 3.65km
流域 名古屋市西区・中村区
<くわしく>
西区から中村区北東部にかけて庄内用水流域の排水を担っていた悪水路で、笈瀬川の支流である。中村区に入ってからの下流部では大きく蛇行しており、いかにも自然河川の様相を呈していることから、自然に形成された河川であると推測される。それはおそらく、庄内川から分かれた大きな流れのひとつで、その痕跡が時代を経て古川となったのではないか。
古川という名前については、かつての大きな川筋の跡に残った流れであるという意味、あるいは笈瀬川の上流を「新規堀」と呼ぶのでそれと対になる名前としての「古」などの由来が考えられる。
寛文年間(1670年前後)にまとめられた『寛文村々覚書』に古川の名が出てくるのは、日比津村と栄村(現在の栄生)の項のみ。しかし川の水源はさらに北東にあり、『尾張徇行記』(1822年)の名塚村の項にある「地蔵前杁 長四間 幅八寸 高六寸」というのがそれに当たる。この杁から引かれた庄内用水の水は、灌漑用水として田畑を潤し、やがて古川としてひとつにまとまり流れていたのだと考えられる。
上流の主な流れについて、中村歴史の会『日比津村』に以下のようにある。
「庄内町”地蔵前杁”からまっすぐ西へ、新福寺の北を流れていた用水路は、ところどころで分流されながら新福寺村を経て、堀越村に至り白山神社の北で分流された水は、神社の西側を廻って南下し”東岸居士の塚”の西を流れ、枇杷島村に入る。」
地蔵前杁は庄内用水西江筋に設けられていた杁だ。上流部は流域の耕地整理に合わせて流路が付け替えられた他、東レの紡績工場ができたことなどにより、かつての面影はない。しかしながら、先の文中に出てくるポイントはいずれも現存しているから、おおまかな流れは把握できる。地蔵前杁の名前の由来になったと思われる地蔵大菩薩も庄内用水の脇に鎮座している。
東レ愛知工場の南からは古川の跡を辿ることができるようになる。といってもはじめは耕地整理された街区の中を流れるため、埋め立てられた現在ではごく普通の道にしか見えない。南へと流れ、西区枇杷島1丁目に入ると路地などとして川跡の空間が分かりやすく現れるようになる。
その先は庄内用水の北に沿う形で西に流れていたが、跡には家が建ち並んでおり痕跡は少ない。
しかし、名鉄名古屋本線の築堤の下に古川で随一と言っていい痕跡が残っている。トンネルである。すぐ南を流れる庄内用水の上には鉄橋が架けられているが、古川はそれとは別の独立したトンネルで通過していて、その跡がそのままの状態で現存しているのだ。中に水が溜まっている様は、さながら古川の水面を見ているようである。まさにタイムカプセルのように往時の古川の姿を留めている築堤下の空間は、本当に貴重な痕跡であるし、その姿を今も見ることができるというのはとても嬉しいことである。
東海道線には「惣兵衛川橋梁」という橋が架けられていて、この橋は古川と庄内用水を一挙に跨ぐ構造だ。ちなみに惣兵衛川とは庄内用水の別称である。中央に橋脚があり2つに分かれているのは、本来車道と歩道とを分ける意味ではなく、南側を庄内用水が、北側を古川が流れていたことに由来するのだ。
中村区内に入ると、並行して流れてきた庄内用水のしたをくぐり、大きく蛇行をはじめる。この蛇行する流路の跡はほとんどの区間が現在でも路地として非常に分かりやすく残っている。とても暗渠らしく、名古屋においては貴重な素晴らしい道だと思う。
明治の始め頃までの古川は「大秋のハエ(※虫の蝿ではなく川魚のこと)はうまい」と言われるほど美しかったそうだ。やはり澄んだ流れだったのだろう。
しかし大正12(1923)年、旭遊郭が中村に移転し中村遊郭が出来た頃より、田畑は住宅地や工場に変化し川はその排水を集めるようになった。さらに昭和7年には、庄内町に焼却炉や染工場が出来、その排水が流れ込むようになり、いつしか古川は「どぶ川」とも呼ばれるような汚い川となっていった。
大正13(1924)年頃から、すぐ西を流れる庄内用水米野井筋と流れを合わせ、古川の水を用水にも流すようになった。下図を参照してほしい。このとき上流と下流の2ヶ所で双方の水路が接続されたため、古川の新たな流路が形作られたと解釈することもできる。
その後昭和5(1930)年から昭和7(1932)年の間に、大秋村付近の蛇行している流路を付け替える工事(はじめの地図中の旧河道→新河道)が行なわれた。これは、大正13(1924)年頃から既に接続されていた古川と米野井筋の流路を一本化し、古川の元の流路を埋め立てるもので、ゆえに米野井筋の水路がそのまま転用されたものと考えられる。こうして細かく蛇行していた古川の流路は姿を消すこととなった。
古川・米野井筋の流路変更と埋め立てに至るまでの変遷についてはブログでより詳しく迫っている。以下のボタンから。
昭和15(1940)年頃には一部で蓋をされ暗渠になったとされる。これはおそらく、当時最も開発が進んでいた則武本通以東の下流部のことであろうと考えられる。ちなみにその先で合流する笈瀬川は昭和7(1932)年に既に暗渠化され、下水幹線に転用されていた。
その後も流域の都市化・宅地化の波はとどまることを知らず、古川も昭和30(1955)年代に埋め立てられ姿を消すこととなった。
文中で追ったように、西区内の一部と中村区に入ってからの大きく蛇行していたあたりは、その多くが道路に転用されたため、暗渠路地として現在まで残っている。また一部では舗装されることなく空き地のまま残っているところもあり、面影を強く残す一方、住宅地の中では異質な空間となっている。
しかし下流ではほとんどが宅地に転用され、痕跡は残されていない。米野井筋を転用した古川の新流路は昭和30(1955)年代まで存続していた。その頃になると、流域にもかなり人家が建ち並ぶようになってきていたため、埋め立て後に流路の跡に何らかの痕跡や、少なくとも土地の境界線などとして名残を留めていてもおかしくないように思うのだが、それすらも皆無に等しい。いや、実は土地宝典(地籍図)を見ると流路の跡にはっきり線があるのだが、実質的には土地の区画として使用されていないのだ。流路跡に沿って斜めに家々が建ち並んでいるという場所はほとんどない。おそらく埋め立ての際に、不整形地が残らないように調整があったのだと思われるが、くわしくは分からない。
唯一現地で確認できる痕跡が中島町にある。十字路の角にある三角形の空き地がそれで、これは流路跡が一部だけ取り残されたものである。
暗渠路地となった上流部、跡形もなく消えた下流部。どちらも区画整理後まで存在していたのにも関わらず、場所によってその後の姿にこれほどまでに差が出たのは何故なのだろう。なぜ痕跡がないか、逆になぜ道として残ったか、その境目には何があったのか。これについては今後解き明かすべき課題である。
作成 2020/02/04 更新 2020/03/25、2020/06/20
参考 日比津村/中村歴史の会 など