庄内用水元樋及矢田川伏越樋改築記念

明治44(1911)年 庄内川普通水利組合

木造だった元杁および矢田川伏越を人造石で改築した際の記念誌

 

(文中には本来「。」は存在しないが、分かりにくいので追加している)


一 總論

金鯱双尾を戴ける五層樓閣屹然として霄を摩するの下十萬の甍四十萬の人口を涵へ煤烟幾條靑空に簇かるもの問はすして名古屋市たるを知る此の街衢を中心として北より西を続らし庄内川の流域に沿ひ南方直ちに烟波浩蕩たる熱田灣頭に面する廣袤十里に渉る一帶の沃土を庄内用水普通水利組合區域とす。實に人口八萬二千戸數一萬五千を有す地は尾張平原の東南部に位し一市二郡に跨かり綠野開展一望平衍南端海に瀕するの地は埋立地に屬する乾陸なるを以て土質粗鬆なりと雖も其他は地味膏膄にして五穀菜蔬に富む其所屬町村を細別すれは左の如し。

 

愛知郡

 中村、愛知町、八幡村、常磐村、荒子村、小碓村、下の一色村の一部以上七ヶ町村

名古屋市

 南區、西區、中區の一部

西春日井郡

 萩野村、六郷村、杉村、金城村、庄內村、枇杷島町、以上六ヶ町村

 

而して之れか水田灌漑反別を擧れは三千八百九十餘町歩たり此の耕地を灌漑するの用水路は大江筋、西江筋、東井筋、中井筋、米野井筋稲葉地井筋、志賀用水御用水の八溝水にして其水源を庄内川とす是れ組合名稱の因て起る所ろ。庄内川は源を美濃國土岐郡悪那山に發し西下して尾張に入り東春日井郡を貫流し西春日井郡に至り矢田川を合せ本郡の西疆に沿ふて南流し熱田灣に注ぐ前記組合内各町村は本川流を引き大小八條の水溝に頼りて灌漑の用に供す。

而して其用水の源泉は之を庄内川に取るを以て東春日井郡守山町大字瀬古地内庄内川南岸に用水引入口を設置し之を元杁樋と稱す。此處より南方直線に三百七十間の開渠を流下し矢田川北岸に至り河底二十尺の處に基礎を設置し人造石伏越樋管を搆造す。長五百六十五尺二寸幅員七尺二門のアーチ形を成し設るに二個の木扉を以てし増水時の水防と爲す。又南岸に貯水場を設け各井筋配水の程度を規定す灌漑季節外は黒川に設けある立切樋門を開放し 通船の爲め放水するの規憲あり。此暗渠を稱して矢田川伏越と呼ぶ。貯水場の西縣道を横断して三門一列の樋管あり之を三間樋と稱す。其下は大江筋なり乃ち元杁樋、矢田川伏越樋、三間樋とは本組合に於ける重要の營造物なり。


二 營造物の來歴

一 元杁樋

庄内川の南岸水分橋の東側に宏壮なる一水樋を見るべし。左右石垣を以て滾々たる流水を湛へ二個のアーチ形樋口之を呑み南方に放下す。是れを元杁樋となす地は東春日井郡守山町大字瀬古に屬するを以て通稱瀬古の元杁と言ふ。

明治九年安場知縣の時僚屬黑川治愿の規畫に基き新たに此の地点に開設したるものなり。往昔の元樋は東春日井郡川村にありて山下八ヶ村內を經て西春日井郡川中村を南流し矢田川伏越樋を設け稲生地内に入り夫れより現今の大江筋に達す因に言ふ。今現に一門の樋管を稲生地內に存するものは三卿惡水放流の用に供する爲めなり。此惡水樋と共に埋設しある伏越樋は黑川開鑿及庄内用水路變更當時に於て共に廢滅に歸したり。

抑も黑川治愿か此規畫に出てたる目的を繹ぬるに一面には之れに賴りて更らに舟楫の利を開かんとするものにして遠く木曾川の流水を引き庄內川と合して南流直下せしめ堀川を通じて熱田灣に達するの通船路を開鑿せるものなり。乃ち現時庄内用水の副水源と見るへき木津用水路を改鑿して木曾川の流水を導き庄內川を合せて之を南下せしむる爲めに新たに地点を現位置にトして元杁樋を設置し二川の流水を併呑せしめ其南方直線に矢田川北岸に達する三百間の水路を開鑿し更らに一條の水路を開鑿して堀川に連絡せしめ今の黑川と稱するもの是なり。以て木曾、庄內兩川の水利に依り熱田灣に達する通船の利便を開き一舉兩全の長計を策したるや明けし然るに木津用水路の改鑿は豫期の如く進行するを得す。

漸く明治十六年に至り竣工を告けたるも爾來庄内川の流域は土砂次第に堆積せる爲め終に舟楫を通するの目的を達するに至らす。結局新たに經營せし水路は用水專用の具たるに止まり黑川の如きは舊時庄内用水の流源たりし山下八ヶ村の惡水及び用水剰餘の流水を放流するの一水溝の用を成すに過きさるに至れり。

元秋樋は明治九年の創設に係り全二十四年の震災に破壊を來し翌二十五年改築を了し以て現今に至る

從來木造なりしを今石造に改む

 

一 矢田川伏越樋

矢田川伏越樋は東春日井郡守山町地內より西春日井郡萩野村地內に渉る矢田川北岸より河底を貫通して南岸に達する暗渠製二條の水道なり。蜿蜒虹の如き三階橋の東側に沿ふて二條直線に併行して川底を横斷せるもの乃ち是れなり。長五百六十五尺二寸に涉り河底二十尺の下に埋設す。前項序する所の目的の下に元杁樋と仝時に新たに營造せるものにして元杁樋を經て流下せる庄內の河水は直線に三百間の開渠を奔流して直に此に至りて分水し二條の暗渠を潜流して南岸に出て貯水場に集合し一は西して三間樋を通し大江筋に入り一は南下して直ちに黑川となり堀川に合して熱田灣に注く。

從來二條の樋管を廢撤し更らに其中間に開鑿して一條二門とし且木造を改め人造石とす創設修築の經過は前者と同一なり。


三 設計及經費

淫霖久に涯り洪水氾濫せは作毛腐敗し旱天雨なく用水潤澤の途を失せは水田亦龜裂し稲禾枯死す。乃ち年の豊凶は天時に屬すと云ふと雖も又人力に俟たすと云ふへからす。若し夫れ水旱防禦の設備と耕耘力行の動作と其宜しきに適し所謂人力の将に盡し而して猶且免れさるもの是れ天命のみ。一市二郡十五ケ町村三千八百九十余町歩の水田は一に庄内用水の潤澤に俟ちて灌漑の便を得るものなり。

 

前項掲くる所の元杁樋及ひ伏越樋の二大營造物は本用水路の咽喉たり。大動脈たり爾餘無慮八條の大小用水路は此動脈の活力動作の下に各引用分配の働きを全ふし全組合內の耕田依て以て稲禾作毛の成育を見るに至る。樋管の經營維持力を致さずして可ならんや。然るに二者共に木材の搆造に成れるを以て永久的の萬全を期する能はす。萬一用水季節の秋に當り此最重要機關に故障を生するあらんか用水供給の途頓に絶止し一望萬頃忽ち赤土に化す。又何の術あつて之を救済するを得ん。是れ組合か深く寒心する所ろ。乃ち此に改築を決行し木材に代ふるに石材を以てし以て万代不朽を期し百年の長計を企圖する所以なり今次の改築に係る搆造設計及經費を擧くれは左の如し

 

一 元杁樋

元杁樋は七尺二門の搆造にして樋管の長は共に九十九尺三寸內法高中央十尺五寸樋の前面に二個の釣戸を設置し開閉に便にす。樋の敷張はコンクリートとす。左右の側壁及甲蓋は素角石にして間場モルタルを用ひ搆造せしものなり。詳細の説明は別紙圖面に譲る。

工費總額は鏡萬五百拾五圓七拾八錢とす。

 

一 伏越樋

伏越樋は内法高中央八尺五寸にして長五百六十五尺二寸なり。人造石暗渠製搆造とす。詳細の說明は別紙圖面に譲る。

工費總額は四萬霊千六百四拾四圓參錢とす。


四 工事の經過

元杁樋改築工事は四十二年度に於て施行の必要を認め設計豫算を編成し同年二月十五日組合會の議に付し決議を經たるを以て縣費補助を縣に申請し同年十二月二日查定許可を得たり。依て指名入札に付し受負人を選定し工事工程表を製し同月十八日工事に着手し爾來縣抜術官監視の下に工事を進めたるも時に農繁期に屬し人夫供給上不足を告くると又霖雨の候に入り河水暴漲等故障の爲めに豫定の進行を阻害せること一再に止まらす。鋭意督勘終に四十三年六月二十日全く竣功を告くるに至れり。

伏越樋改築工事は四十三年度の事業とし施行すへく搆造設計の調査を遂け經費隣算を編成し四十三年四月十五日組合會の決議を經たるを以て同年五月二十九日縣費補助を縣に申請し七月十三日查定許可を得たり。

 

本工事は矢田川を横断し河底二十尺の下を開鑿し長五百六十五尺二寸に渉る溝渠を築造するものなるを以て規模の大小施工の難易固より前者の比にあらす。多大の築品諸材料は確實にして豐富なる供給を要すると同時に工事受負人は經驗に富み誠實なる人物に俟つことの當然なるを以て前者の如く一手受負の法に頼らす工事と各種材料とを分割し乃ち用材は確實なる原産地若くは信用ある會社と契約し之を蒐集し一方には適實なる請負人を選定して工事に當らしむることとせり。

 

明治四十三年七月三十日工事に着手す。先つ矢田川流域を南北に中分し流水を一方に集中通過せしめ其部分を竣はり又他の一方に移り施工するに決し北部を先にし南部に及ぼせり。伏設の位置は舊の御用水及伏越樋の中間をトし策造するものにして開鑿數尋に至り。全水甚だしく湧出し殆んと作業をなす克はす臨時に蒸氣力排水機關を据付け且排水し且施工し經營甚た力む。

其南部施工に當りては堤塘以南は低地に属するを以て之を切開き排水の便を得たるを以て前者に比し順調に進行するを得たり。只夫れ農繁期に入り人夫の不足すると時に天雨連旬作業を妨くること數次。又原産地に取る石材の如き鉄道輸送上時に貨車の停滞を來し豫定の着荷を得さる等にて幾多の阻害に遭遇せしも殆んと晝夜兼行的に督勵鞅掌し以て明治四十四年五月三十日竣工を告くるに至れり。


五 木津用水の餘澤

此に特筆すへきは木津用水の事なりとす。庄内用水の水源たる庄内川は其流域廣潤にして土砂所在に堆積し其位置變移常ならさるを以て其流脈一定せす。從つて一定不變の給水を亨くるを得ず。况んや一朝旱天に際會せる水量頓に減滅し各用水路底龜裂を生し殆んと其用を爲さす。既に明治十六年及明治廿六年の大旱魃より近く去る四十二年夏季の旱魃に徵するに炎陽金を鑠かすの時に當り一滴の降雨を見さること七十餘日に渉り組合西南部の各村は井水正に盡き萬頃の水田忽ち乾土と化し立毛枯死せんとするの惨状を呈したり。乃ち上流各用水路の浚渫刈藻を励行し旦又配水時間割を變改し百方之れか救濟に盡力せしも如何せん源水既に欠乏せるを以て助水を木津用水に求るより外なきに至り。依て木津用水組合に對し助水を懇講し木津井組も之を諒し好意を以て百方助水に勉め幸に死中に生を求め被害の程度をして甚大に至らしめさるを得たるは實に木津用水餘澤の賜なりとす。

 

木津用水は源を木曾川に取り丹羽郡木津村より南下し大口村に至り東西二脈に分れ西するものは東春日井郡を経て西春日井郡に入り東するものは東春日井郡を貫き庄内川に合す。是を新木津用水と稱す。明治十六年の大改修に係り其延長三千四百間に渉る。實に本用水の源泉と認むへきものなり。本組合か其餘澤に浴し未曾有の旱魃に際し惨害を免れたるは前項序述する所の如し。向きに黑川治愿か本水路の改修を企つるや本組合內愛知郡各町村は金貳千百圓を醵出して共工費を補助し爾來組合より年々百圓を給付せるの慣行を存するもの此の餘澤に對するの報償に外ならす。

 

今や茲に本組合の重要營造物改築の竣工を記するに當り聊か其徐澤の由る所を記するは共關係を明にし永く記臆に存せんか爲めのみ。


六 結論

本組合事業經過の梗概は上來叙述せる如し。茲に搬筆に際し聊か將來の希望を記述せんとす。庄內川の流域廣豁なるに拘らす土砂堆積して灌漑の便充分ならす。況んや舟楫の利を得る克はさるのみならす一朝大雨に際會せは土砂暴かに流逸し熱田灣內に流出し其の害云ふへからす。縣當局者は其の害を防くと同時に水源の涵養を認め卅三年以來砂防工事を規畵し經營施設甚た力め明治四十年度より六十九年度に至る繼續事業として實に貳百九拾餘萬圓を投し鋭意施行せらるるを以て近き將來に於て克く其目的を達し滔々たる河水の奔流を見るへきは一般の期待する所なり。組合は此の光明を認め更らに組合全區域に對し耕地整理を規畵し測量設計を縣に申請し現に實測中に屬せり。其目的とする所ろは耕地宅地を整理改良し用悪水路の配置を完全にし更らに進んて荒子川中川等の流域を改修し以て運河の便を開き同時に其の流水を利用し之れを市街地各種の工場用に供給するを期せんとす。此の理想を現實するは遠き將來にあらすして近き將來に實現するの盛況に達するの期に近きつつあるか如し。茲に於てか往時黑川縣屬か若心の計畵始めて其日的を達するのみならす猶之れを擴張して時代の要求を充たすを得るに庶幾からんか。之れを將來の希望とす。