なんだか社会科の教科書にありそうなタイトルテイストになってしまったが、ここでは中川運河そのものについてくわしくまとめます。中川運河の前身となった中川(笈瀬川)についてはこちらを。
中川運河はささしま地区の堀止船だまり及び、堀川と連絡する松重閘門から中川口閘門を結ぶ運河である。幹線並びに北支線・東支線と4つの横堀運河(小碓、南郊、荒子川、港北)によって形成されている。すべての水域は港湾区域であり、運河は港湾施設として位置づけられている。
この運河の開削により、沿線に倉庫や工場などの関係施設が集積し市南西部の発展の一大拠点となった。最北の堀止では国鉄の笹島貨物駅(現在のささしまライブ24)とも連絡し、はしけやいかだによる一大輸送幹線としての役割を果たすとともに、市中心部の排水機能を受け持つ施設として市民生活を支えた。
しかし、昭和40年代に入ると、道路網の充実や貨物のコンテナ化などの港湾荷役の形態の変化、名古屋港の整備の進捗による沖合展開などにより、はしけによる貨物輸送はトラック輸送へと転換し、中川運河の水運利用は昭和39年をピークに年々減少。現在の取扱貨物量はピーク時の2%程度となっている。
水運の減少に伴って横堀運河の一部は埋め立てられ、その一部は南郊公園など緑地として活用されている。沿線の倉庫群などは減ってはいるもののその多くはまだ現役で、中川運河沿いには堀止まで工業地区の雰囲気が漂っている。
中川運河では、全域の水位を一定に保つため、名古屋港及び堀川との接続点にそれぞれ中川口閘門・松重閘門を設けている。こうした閘門を持つ運河を閘門式運河と呼び、かの有名なパナマ運河でも同じ方式が採用されている。中川口通船門水位調節のしくみは、名古屋港管理組合のページに詳しくまとめられている。
中川口閘門は現在も現役で、少ないながらも続く運河の水運を支え続けている。堀止などから乗船可能なクルーズ船では、閘門内を通過するという貴重な体験をすることもできる。
一方、松重閘門は使用の減少により昭和43(1968)年に閉鎖された。その後、中川運河側と堀川側双方の水門両脇にあった計4本の尖塔を含め取り壊される予定であったが、保存を求める住民活動などもあり、現在では永久保存されることが決まっている。名古屋市の有形文化財、都市景観重要建築物等にも指定され、夜間はライトアップされるなど地域のシンボルとして現在も親しまれている。
名古屋における水運の施設といえば、堀川と新堀川がその主要なものであった。いずれも人工的に開削されたもので、堀川は慶長15(1610)年、新堀川は明治43(1910)年に完成している。そもそも名古屋という街は海から離れた立地であったから、こうした運河で市街地と港とを結ぶ必要があった。
大正時代になると、名古屋港の発展は著しく、出入りする船舶は年々増加の一途をたどっていった。中川区・港区を中心とした名古屋の西南部は水田の広がるの農村地帯だったが、名古屋港に近く東海道本線及び臨港線が通じており、工業には適していた。名古屋港、ひいては名古屋市のさらなる発展のためには、この港の背後地域に臨海工業地帯を整備し、並びに運河網形成による有機的な運営を行うことがその基盤として求められた。名古屋港の背後の輸送機能を強化し、同時にその残土を以って工業地帯を建設せんとしたのが、中川運河の開削計画であった。
そこで名古屋市は、大正8(1919)年の「名古屋市区改正計画」にて、荒子川・中川・堀川・山崎川・大江川を運河化することを盛り込んだ。さらに翌9(1920)年に策定した「大名古屋都市計画」で、現在の中川区から港区にかけての名古屋港北側一帯を「工業地域」として指定し、開発の素地を整えた。
開削事業は、大正13(1924)年11月に市会で確定されるとともに実施計画に着手された。この計画は中川運河・荒子川運河・山崎川運河・大江川運河の整備と、さらに堀川を加えた名古屋の五大運河を造るという壮大なものである。そして、中川運河はその中で最も重要な位置にあることから、まず第一の事業として建設が進められた。
そして、大正14(1925)年11月には用地買収価格、12月には地上物件移転補償費が発表され、交渉が開始された。用地買収等は難航したが、翌15(1926)年10月1日には起工式が行われ、開削工事が開始された。昭和5(1930)年10月10日、幹線及び北支線(露橋~堀止)の使用が開始され、昭和7(1932)年10月1日の東支線(露橋~堀川)の開通をもってが全線が完成した。
完成時の中川運河は、総延長8,208mで、水域の幅員は約36~91m、水深は約3m。名古屋港に通じ、北上して堀止に至り笹島貨物駅と連絡、小栗橋の上流からの東支線で松重閘門によって堀川にも通じる、現在と変わらぬ形だ。水面高は閘門により一定に保たれている。松重閘門を通じて堀川のバイパスとしての役割も果たし、堀川に至る航行時間は堀川口経由に比べ3分の1にまで短縮された。
中川運河開削事業に付帯して、開削の残土を利用して沿線を埋め立て、建築敷地を造成する事業が行われた。
中川運河沿線の土地には名古屋港平均海面以下のいわゆる0メートル地帯もあったため、地盤の嵩上げが必要だった。そこで、運河開削とともに掘った土を利用して両岸の敷地造成を行い、そこに工場を誘致したのである。名古屋市の都市計画や区画整理において著名な技師、石川榮耀によれば、これは運河土地式に分類される土地区画整理の一手法であり、運河開削と両岸の土地造成を同時に行い、また工場誘致によって運河も大いに利用されることとなる、いわば一石三鳥の方法であった。
昭和4(1924)年1月18日、中川運河沿線土地区画整理組合が設立され整備事業が着手された。この事業では民有地284,000坪が対象とされたが、用地買上げに対して住民の不満も強く、63,100坪が土地収用法による裁定を受けた。1坪あたりの買上げ価格は平均8円5銭であったが、整理後の売却価格は30円程度とされ、その差額は、運河建設事業費の一部に充てられた。昭和5(1930)年10月21日には換地処分に至り、組合は昭和7(1932)年に解散した。
整理後の土地は、各種の工場・倉庫等の建設に利用され、運河開削計画の当初の目論見どおり、名古屋市の産業発展に大きく貢献することとなったのである。
下の写真は開削中の中川運河を上空から撮ったものだ。手前が北、奥に広がるのが伊勢湾である。右手前からは笈瀬川の流れが確認できる。撮影時点では笈瀬川はまだ埋め立てられておらず、そのためかは分からないが、笈瀬川が横断する前後の区間のみ運河の完成が遅れているように見受けられる。
支流というほどの規模はないものの、かつてはそれなりの水量が流れ込み、あるいは運河の水質向上にも役立っていたかもしれない。笈瀬川・中川は流域の排水を集める悪水路だったから、当然そこに流れ込んでくる支流がたくさんあった。一部が中川運河として整備されたことで、それらは運河へ流れ込むことになる。運河の沿線には工業用地が造成されたが、そこに川はない。目に見える形では。そう、つまり中川運河へ流れ込む川は全て暗渠だった。上流部が開渠であっても、一旦暗渠となった上で工業用地を抜けて運河へと合流していたのだ。現在、運河の護岸に暗渠の合流口が残っている、あるいはその痕跡があるものとしては、上流から米野井筋、徳左川、笈瀬川、長北用水、中井筋松葉分水(仮)がある。
この内、米野井筋と笈瀬川の暗渠はおそらく築造当初のものがそのまま現存している。徳左川の暗渠は近年まで残っていたが、直上の岡谷鋼機「中川配送センター」の建て替えの折にコンクリートで覆い隠されてしまった。
笈瀬川については、中川運河の前身となった川であるのに、何故それが流れ込んでいるんだという疑問は至極当然なものであると考えるが、その点については笈瀬川・中川のガイドやブログ「笈瀬川と中川運河は共存していた」に書いたので、そちらをご覧いただきたい。
中川運河開削前の1920年頃と、完成直後の1930年頃に描かれた国土地理院の旧版地図からそれぞれ同じ範囲を切り抜き。
細かく蛇行しながら南下していた従前の中川の流れのほとんどは運河に飲み込まれ消滅したことが分かる。また、堀止の北側一帯にはかつて平野村の集落があったが、中川運河の開削と同時期に笹島貨物駅が誕生したことが分かる。
作成 2020/03/02
更新 2021/03/31、2021/04/29
参照 中川区史
古地図で楽しむなごや今昔
荒子川運河建設経済調査
中川運河再生計画(名古屋市住宅都市局)
資料 国土地理院旧版地図:今昔マップより
開削中の航空写真:中川区史より