愛知郡誌

大正4(1915)年 愛知郡役所

関連のある部分だけを抜き出して転載。分かりやすさの観点から一部漢字置き換え。

 

愛知郡図
愛知郡図

第一編 総説 第二章 地勢 第一節 山系水脈 第一項 河流

荒子川

源を本郡中村稲葉地悪水より発し、南流して岩塚野田を過ぎ、漸次悪水を集め河幅広まり、荒子に至って荒子川と称す。熱田新田西組を経、熱田前新田に至て内海に注ぐ。長さ凡二里十町十五間三尺、幅一間乃至八十三間、専ら悪水疎通の用に供す。

 

中川

源を西春日井郡名塚の悪水より発し、南流して逐次悪水を聚め、幅漸く広きを加へ、笈瀬川と称す。同郡の児玉、名古屋の押切町を横過して南押切に入り、本郡中村の則武、愛知町の牧野を過ぎ、露橋に至り、一派東して堀川に注ぐ。幹流は仍南下して四女子、篠原、熱田新田東組等を経、熱田前新田に至て内海に注ぐ。長さ凡二里二十三町幅四間三尺乃至三十九間三尺、専ら悪水疎通の用に供す。

 

堀川

東春日井郡瀬古に於て庄内川の派を分ち、黒川(此部分は明治九年丙子の開鑿にして本県属黒川氏の計測に係る水流やや急なりといえども軽舟を通ずべし)と称す。南流して西春日井郡に入り、直に矢田川底下を墜下し、大幸川と会し、田幡より上名古屋に沿ひ、市中に入りて堀川と称す。南下して正木町より、本郡八幡村大字西古渡及び八熊、西熱田、千年と熱田との界を過ぎて名古屋港に注ぐ。長さ凡三十一町二十四間、幅三十五間乃至四十八間、水流渓漫、舟筏の上下甚だ繁く、本州に出入するの貨物、多く此の運輸による。

 

精進川

源を東山村大字田代(字猫ヶ洞)より発し、千種町に至り、悪水を聚めて南下し、前津小林、東古渡、東熱田、熱田伝馬町を経て名古屋港に注ぐ。長さ凡一里十五町二十八間、幅二間乃至六間、専ら悪水の疎通に供す。港口は常に小舟を出入す。


第三編 愛知郡沿革 第一章 郡の沿革 第三節 愛知郡の境域 第三項 舊荘園

則武荘

今の牧野・則武(舊大秋を除く)・米野・北一色・高須賀・長良・小本(本郷を除く)・篠原・八熊・四女子・日比津(或は云ふ日置荘)等は皆此の荘内なり。尾張志に是は中世に則武と云ふ人の名田なるが、つひに広く荘となれることを記せり。

大系国郷公禅師圓成伝を按ずるに、配流奥州柴田而被召返之後以伯母尼浄圓跡尾張国愛知郡同則武名等元暦(今本暦を慶に誤る)二八三被下安堵状知行了とあり。其名田なること之れに依りて知るべく、又則武なる者も元暦以前の人なること知るべし。又熱田脚宮馬場左京尾張宿禰家の古文書に、熱田宮の御領「ナリタケ」の郷のうち、神官かずなかが相伝の分三十六反代々の院宜を給はりて、知行相違なき上はかの院宜の旨に任せて、子細あるべからざるよし云々。元享元年卯月日熱田のすけこ太夫殿とある此の「ナリタケ」は則ち則武なるべし。

 

一ッ楊

上中・下中・稲葉地・烏森・岩塚・八田・萬町・野田・打出・横井・中郷・高畑・荒子・法花・東起・大蟷螂・下之一色・中須・中島新田・本郷等の地は皆其の荘内なり。而して本郷は此荘の本所にして、一楊は其舊名なるべく、中郷は所謂其の中郷なるべし。横井・中郷・荒子の近傍は古へ伊勢神宮の神領にして、一楊御厨と称せり。

鏑矢記に永寄進尾張国一楊村御厨上分口入米事合壹石之中三分3斗口入料添斗入神庫之秋定也右件御厨者往古爲内宮御領之處神宮解状不成上之間任傍例所寄進當宮云々寄文之通内一通者調正印可返納領主一通者被納神庫一通者可被留口入所之状如件弘長元年六月十五日領主飛騨守大中臣云々などあり、又康正二年造内裏段銭井国役引付に一貫六百文云々、東山岡崎普明院鎮尾張国一楊内伊勢方段銭と云事も見ゆ、此伊勢方といふはかの大神宮の御領地をさしていへる名目なるが、神領の廃れて後他家の領地となりても、猶舊を追ひていひあへりし地名歟、若くは神領の村々を凡て広くさしてかくかくにいへるにかあらん、今かくひふ地名の残らぬと思えば神領地なりし村々をとりすへて伊勢方といひしにやあらむ。

此庄内に老瀬川といふ川あり、府誌に笈瀬と書き、徇行記に笈瀬又老瀬とも書れと正字詳かならず。

今の世横井村に御厨郷といふ郷名ののこり伊勢田といふ神田五畝歩前々より除地にて伝へ来れりといへり。又此邊に郷邑に神明の社おほかるに御神領のしるし著く柳瀬川・柳街道などといふも皆一楊の遺称なるべし。


第三編 愛知郡沿革 第一章 郡の沿革 第三節 愛知郡の境域 第四項 境域の変遷

町村分合一覧表

 

愛知町

 笈瀬村

  牧野村・・・牧野村

  平野村・・・平野村

  北一色村・・・北一色村

  米野村・・・米野村

  露橋村・・・露橋村

  日置村・・・日置村ノ内

 

中村

 鷹羽村

  栄村・・・栄村

  則武村・・・中野高畑 大秋村 中島村

 日比津村

  日比津村・・・日比津村

 織豊村

  稲葉地村・・・稲葉地村

  上中村・・・上中村

  下中村・・・下中村

 

常盤村

 柳森村

  烏森村・・・烏森村

  萬町村・・・萬町村

  八田村・・・八田村

  高須賀村・・・高須賀村

 松葉村

  篠原村・・・丸米野村 八屋村

  長良村・・・長良村

  四女子村・・・四女子村

  小本村・・・小塚村 七女子村 本郷村

 岩塚村

  岩塚村・・・岩塚村

荒子村

 一柳村

  東起村・・・東起村

  法花村・・・法花村

  中島新田村・・・中島新田村

  中須村・・・中須村

  大蟷螂村・・・大蟷螂村

 御厨村

  野田村・・・野田村

  中郷村・・・中郷村

  横井村・・・横井村

  打出村・・・打出村

 荒子村

  荒子村・・・荒子村

  高畑村・・・高畑村

 

八幡村

 八幡村

  八熊村・・・五女子村 二女子村

  西古渡村・・・古渡村ノ内

  野立村・・・牛立村 中野村

  中野外新田村・・・中野外新田



第三編 愛知郡沿革 第二章 町村の沿革

(一)八幡村

本村は明治十六年野立・八熊・西古渡・中野外新田の四ヶ村にて戸長役場を設け風岡甚左衛門を戸長に仰ぎて村治を図りしが、明治二十二年十月町村制実施の際前四ヶ村合併して自治体を組織し、八幡村と解消して今日に至る。

 

附記。

野立村は明治九年二女子・五女子二村の合併したるものなり。西古渡村は古より単に古渡村と称せしが、明治九年之を三分して中を古渡・正木・伊勢山の三町とし、名古屋区に属し、以東を東古渡村とし、以西を本村乃ち西古渡村と変更せり。

 

 

(二)愛知町

明治四年廃藩置県の令出づるや、當町地方は名古屋県第二大区第一小区に属し、明治九年八月従来の大小区を廃し、更に愛知県を十八区に分たれたる際、當部落は第一区(名古屋)に属せり、同十一年十二月、郡区町村編制法の実施せらるるや、再び愛知郡に編入せられ、米野・牧野・平野・露橋・北一色・の五ヶ村組合となり、日置は廣井・下名古屋・上名古屋の四ヶ村組合となりしが、同二十二年十月町村制の実施に際し、舊組合を解除し、牧野・米野・平野・日置・露橋・北一色の六ヶ村を合併して、笈瀬村と称せしが、明治三十七年十二月廿一日、町名を愛知と名づけ以て今日に至る。

 

附記。

米野は古へ則武の荘に属す。今俗に甲米野(上米野)乙米野(下米野)といふ。

文和三年四月廿三日の熱田神領目録に、愛知郡舊野郷田畑四町壹反云々とあり、盖し、コメノは此のものの伝聲にして、平野・牧野・米野は舊一円なるべし。明治初年には戸数僅かに二百余戸の農村なりしが、漸次増加し大正四年末には千四百八十一戸あり、商工業盛にして工場会社多く。鉄道員其他官吏の居住者少なからず。

 

平野は尾張志には山田の庄と云ふ。凡そ山田の庄は山田郡すたれて後其の地の村々をいへるなれば、此のわたりに此庄号を用ふるは誤なるべし。

 

日置の庄も那古屋なりしを伝を失ひたるなりとあり。明治初年には三十余戸にして、人家は今の所よりも北にありしが、舊愛知駅の新設に際し、大部分は其の南方に移転せり。露橋は古名古屋の庄に属す。尾張地名考に地名正字にや、凡そ地名に露霜雨雪のたぐひは稀なりと雖も紀の国室の郡に近露村あり、相模国鎌倉に雪の下といふ所もあり、されば此村も文字の如きか猶考ふベしとあり。

 

北一色は則武の庄に属せり。北とは下の一色に対したる名なるべし。一色と呼ぶ地は凡十に九までは新地の水涯にあり、されば初めて居敷を定め家屋をトするの謂なり。新居又は築地などいはんが如くなれば石垣・石築などの約りか、又は単に居敷の義なるべし。キイの仮名遣いは戦図時代には構はざりしものか(尾張地名考)

 

日置は日置の庄に属せり。按ずるに當日置の地名たるや、古楽の名称にして大古の代、吾が皇神の国土を経営したまふや、民人に時を授くるを以て、太政の要としたまへり、然れば神代に天櫛耳命は共神天櫛王命の天業と経て、其神孫を所々に住ましめ、日置きたる暦法を領布せしめたまへり。尾張国愛智郡日置の郷は其の一にして、則日置といふ名称の由て起りたる所以なり。(名古屋日置神社の碑文)當字は元名古屋市日置町の出郷にして、今より約百余年前は戸敷僅かに十余戸なりしが、次第に発展し現今にては二千七百戸に近く織物製網鉄工等の工業地たるに至れり。

 

 

(三)中村

中村は明治十一年三月、中野高畑村・中の島村と大秋村との三村を合併して則武村と改称し、同時に栄村・日比津村・上中・下中・稲葉地等に戸長役場を設置せられて村制を掌る、明治十九年四月、栄村外四ヶ村(南押切・名古屋・日比津・則武)を以て戸長役場を栄村に設置せらる。同年下中外三ヶ村(上中・高須賀・烏森)を以て、戸長役場を下中に設置せられて村制を掌り、同年稲葉地は岩塚村と共にこの二村を以て戸長役場を岩塚に設置し以て村制を掌る。明治二十二年町村制施行な際則武・栄の二大字を鷹羽村と称し、日比津一字を日比津村と呼び、上中・下中・稲葉地の三大字を織豊と命名したるも、明治三十九年五月十日町村廃合の際右の鷹羽・日比津・織豊の三村を合併して中村と改称し、爾来今日に至る。

 

附記。

則武。熱田神領目録に愛知郡大脇郷と見ゆるは、今の則武一円の事なるべし。日本書紀に愛智郡吾湯市の村は、熱田の祝部の掌る所なりとあれば、其の神領なりし事は疑ふべからず、今も大秋・中島・中野・高畑等の称あり、共に則武の荘なり。文和三年四月二十三日熱田神領目録に大脇の郷とあるは大秋の事なり。當村覚円寺阿弥陀の絵像の裏書には名慶六丁己二月、尾州愛智郡大脇郷中島と見ゆ、他村にある同名とくべつせん為め大秋中島といふ。往時此の付近秋水大に至れば、往々桑滄の変を免れず、故に大古中古に於ける当時の邑の変遷は、其の跡をそのままに存しがたしといえども、殊に和名抄の後七百五十年の間は地名の記録更になし、単纔に東鑑に承久の後諸国の郷村荘保の新補地頭所務事見ゆるのみなれば、其の以前は定かならず、枝村に大和田といふあり、今は廠村となれり。中野高畑の中野は中島郡に高畑は同郡及海部郡に同名あり。中島は同名處々に多し、故に大秋中島と呼ぶ。大秋は祝言の正字なり。明治九年丙子八月、中野高畑村・中島村・大秋村を合併して則武と改称せり。

 

栄。徇行記に云、古老曰此村古へ上下の二区ありて、上は栄出町の南方にありしを今の地に移して下に接続せりと。農家多し、出郷栄出町(今八坂町)にして明治四年辛未名古屋に属す。支村にして正字は狭所なるべし。さはせばき義にして瀬古村に義同じかるべし。後世好字に祝替たるなるべし。(考証)山城国久世郡に佐古村あり、是は仮名がきなし。(栄も則武の荘なり)

 

日比津。常徳寺古交書慶永八年のに、愛智郡泥津と見ゆ。一柳の荘なり。古記に土津もと泥津とも書くとあり。往時は土津中村は一郷なるべしといへば土津の転聲ならん。儈日潤曰く、日比津村は極めて湿の所なり、土津と呼ぶも所自にやあらん、又本国帳に従三位土津天神と記し、松平君山先生は、日置庄日比津村天神の祠は是なるべし。社地荒廃して今は其の伝を知らずといへるを見ても知らる。

 

上中。一柳の荘なり。支郷に堀の内といふあり。和名類聚には中村とありて上中、下中の区別なし。文和三年四月二十三日には、上下二村に分れ、熱田神領目録に上中畑二十二町八反とあり。後豊公出征の故を以て、公の御代には中村一円の年貢とてなかりしが、文禄の初め百姓の怠惰を感ぜられて、其事御引上げとなりたりと云ふ。

 

稲葉地。地名正字なれども俗語なり。地の一字を除けば雅語となる。一柳の荘なり。支村二あり、東宿、六石(萱津川の西三四戸あり)是れなり。岡田啓曰、東宿はもと萱津村に属したるべし。正考には萱津は南宿の畔名なり。此の東宿の墓原を女郎墓といふ。稲葉地より巽へ斜に古渡村迄は古の鎌倉街道の跡残れり、土民は小栗街道といふなりとあり。又光行紀行にも海部郡に萱津村の属せしこと記しあり、東の宿は川東にありて往時の街道の一駅にて、中々賑はしかりし事明なり。本宿は今の海部郡の中にあり、何時の頃より此の村に入りたるにや記録なし。東宿の支村に今尚町東・町西・元町等称する地あり。

 


(四)常盤村

常盤村は明治三十九年五月十日、岩塚・柳森・松葉の三ヶ村を合併して常盤村と改称し、以て今日に至る。

 

附記。

岩塚。明治十七年八月一日、岩塚・稲葉地・相合して、岩塚稲葉地戸長役場を置きて村政を治めたりしを、明治二十二年十月、町村制施行に際し、分離して独立の岩塚村をなす。然るに明治三十九年五月十日、柳森・松葉の二村と併合せられ、此に今日の常盤村となる。岩塚は地頭の所領にあらずして御蔵地なりき、而して其の高二千四百石と称へたり。

 

烏森。明治十七年八月一日、烏森・高須賀・下中・上中相合して下中村外三ヶ村戸長役場を置き、村政を治めたりしを明治二十二年十月、町村制実施の結果、烏森・高須賀・萬町・八田の四ヶ村を合併し、以て柳森村と改称し、後更に岩塚・松葉の二村と合併して常盤村と称す。

 

萬町。明治十七年八月一日、荒子・八田・高畑と合併し、荒子村外三ヶ村役場と称し、村内の事務を取扱ひしを、明治二十二年十月町村制実施の際、八田・烏森・高須賀と合併し、柳森村と改称し、後更に岩塚・柳森・松葉の三ヶ村を合併して、現今の常盤村となれり。

 

八田。明治十七年八月一日、荒子・高畑・萬町と合し、荒子村村外三ヶ村役場を置き、明治二十二年町村制実施の際、萬町・烏森・八田・高須賀と合併し、柳森村と改称し後更に常盤村と改む。

 

高須賀。明治十七年八月一日、烏森・下中・高須賀を合し、下中村外三ヶ村役場を置き、明治二十二年町村制実施に際し、烏森・八田・萬町と合併し、柳森村と改称し、後明治三十九年五月十日より現今に至る。

 

長良。明治二十二年十月、町村制実施に際し合併して一村となし、松葉村と改称し、後更に岩塚・柳森と合併して常盤村と称す。

 

四女子。徳本寺過去帳によれば、平家の臣肥後守貞能尾州に住す、妾二人同月同日に二子宛を産む、其の後源頼朝貞能を赦免し、四人の女を鎌倉に召して、(中略)末代の験と其の村を四女子と名く、其の後四女子の母を神に祀らしめ給ふ、社あり後に是を取違へて、頼朝の宮と号すとなん、今は何れの宮もなし、昔は四女子の西に宮ありと伝へたり。享保十七子暦五月二十一日第九世歸順書之眞偽計りがたし、変遷分合は長良と等し。

 

小本。明治十七年七月小塚・本郷の二村を合して小本村と改称し、其の後の分合は長良と異なるところなし。

 

小塚。京都妙顕寺の元弘三年五月十二日寺領寄進状に「尾張国松葉荘同国小塚郷と見えたり」又右七女子村あり天保の頃廃して小塚村に入る云々。

 

篠原。明治十年七月米野・八ッ屋の二村を合併して篠原村と称す其の後の分合は長良と同一なり。

 

 

(五)荒子村

荒子或は云ふ墾の意と、三河国にて新田をすべて、荒子と呼びて、あらきはりのつづまりたるよし也。されば荒子村も元新田の各より起りしならんか、而して明治三十九年の町村併合の際、本名を採るに至りしは、舊荒子は戸数に於て他字と比して尤も大を占め、其の歴史上よりは前田利家出生の地なるのみか、尾張四観音の一なる浄海山観音寺あるの故を以てなり。

本村は維新後十六年迄は現在の各大字とも一村なりしが、同年十月野田村・中郷村・打出村・横井村は合して野田村戸長役場にら中島新田・中須村・大蟷螂村・法花村・東起村は合して中島新田戸長役場に、荒子村・八田村・萬町・高畑村は合して荒子戸長役場に属せしが、明治二十二年十月町村制実施と共に、中島新田・中須・大蟷螂・法花東起は合して一柳村となり、野田・横井・中郷・打出は合して御厨村となり、荒子・高畑と合して荒子村となれり。而して明治三十四年四月に至り、一柳村の中・中須・大蟷螂は分離して御厨と合するに至る。かくして明治三十九年五月町村合併の制により、現今の荒子村をなすに至れり。

 

附記。

野田。神鳳抄に野田・御厨と見ゆ、されど詳かなるを得ず。或は云ふ野田は沼田の訛ならんと。

 

中郷。正保図元禄郷帳共に中野郷に作り、天保郷帳に中郷に作る。今これに仍る。地名考に曰く、古へ厨樹あり今の字に非らずと。然れども玉蘂の建暦元年六篠に尾張国一柳庄御厨中郷之下司行直云々と見えたり。

 

大蟷螂。古海岸に接す、爲めに目標として大燈籠を設く、後之を海部郡飛島村に移す、然れども其の名を在して大燈籠と呼ぶ、後何時頃よりか今の字を書するに至れり。

元和の頃海中の鳥津を開築す、起原詳かならず。寛永十一年申戌八剣社を勧請す、然れども元禄帳之を載せず。

 

法花。正保図、元禄郷帳共に法華に作り、天保郷帳に法花に作る。今之れに仍る。一村の民戸悉く日蓮宗に属す。故に名づくと云ふ。


第七編 産業 第一章 農業 第三節 灌漑及排水 第一項 水利組合

庄内用水組合

 愛知郡・名古屋市・西春日井郡

 設立 明治三十二年三月十四日

 

一、沿革

往昔徳川幕府の企封にして元亀、天正の頃尾張侯治水灌漑の便を図り、民利増進の爲め起工したるのものなり。爾来星移り物変りて明治十八年に至り水利土功会組合を組織せり。然るに明治三十二年に至り該組合を廃し、水利組合法の発布と共に組織を改善し庄内用水普通水利組合を組織し灌漑宜しきを認むるに至れり。明治四十一年に至り水利組合法の改正と共に大に組織を革むるに至り、同時に営造物の改善其他堤塘水路等の整理をなし以て現今に至る。

 

二、基因

徳川幕府金城建設と共に城濠を開鑿せらるるに當村り、東春日井郡守山町龍泉寺山麓より用水路を新鑿し、城濠に引水せらる、是れを御用水と称し、庄内川(守山町川村)に元杁を新設し、引入樋を設け、七十町歩の灌漑の便を計測し、遂に今日あるを見るに至れり。

 

三、水源

本組合用水々源は遠く岐阜県恵那郡武並村外五ヶ村に起り、土岐郡中余戸村及日吉村其他可児郡豊岡村外三ヶ村の流水を包含するものにして、即ち之を土岐川流域とす。盖し土岐川は庄内川の上流の総合的通称なり。而して庄内川に合流する矢田川は其の水源を東春日井郡早野村水野村高蔵寺村志段味村鳥居村勝川町に発し、守山町及西春日井郡庄内村に於て庄内川に合流するものなり。本組合は之れが流水を利用し、組合地区内反別三千八百十町五反歩にして、内本郡に属するもの二千五百三十七町二反歩に灌漑す。

 

四、組合営造物

本組合の営造物としては東春日井郡守山町大字瀬古庄内川堤防南岸に設置したる木造の杁樋あり、是れ明治九年の設備にかかるものなり。元来東春日井郡元山下八ヶ村(今守山町)内に伏設しありたるを當時此地へ移転したるものにして、明治二十四年大震災に破壊し、同廿五年改築更に明治四十二年十二月十八日起工し、明治四十三年七月三十日には矢田川伏越樋の起工に着手せり。


第十編 名所舊蹟 第二章 舊蹟

(廿二)鎌倉街道

鎌倉街道は海部郡萱津の駅より川を渉りて、中村東宿に入り、巽の方に斜に上中村を経て、米野用水に沿い、愛知町大字露橋の宮裏金藪を経て、山王橋の邊より名古屋市に入り、山王横丁を通りて御器所村及び呼続町字桜田を過ぎ、鳴海町字娵ヶ茶屋より古鳴海を経て、相原郷八ッ松より豊明村二村山を過ぎ、境川を渡りて三河に出でたるものなり。中村東宿は萱津の東の宿の意なり。宗尊親王御下向の際にも、建長四年三月二十二日美濃黒田にて御晝休みありて、夜は萱津に宿し王ひ(東鑑)、明日は鳴海に宿し玉ふとあり。東關紀行に萱津の東の宿につきしに、今日は市の日とてそこらの人々の集まりて里もひびく計りにののしり給ひ云々とあり。東宿より巽の方一里余、名古屋に至る間は古道の址残れるものあり。鳴海町小鳴海、八ッ松、二村山の南麓等には古松尚在し、今尚往昔の名残りを留む。


第十二編 人物伝 第三章 篤行者

安井徳左衛門

愛知町大字北一色に生る、高八百余石の田地を有する豪農なり、今の安井興三郎始め七人の住居する三段五畝十八歩の宅地は、悉く徳左衛門の宅址なりしを以て見るも、當時の盛況を想ふべく、今より百余年前までは、一部其の舊態を存せりと云ふ。

徳左衛門夙に公共の事業に志篤く、徳左川の水路は實に氏の開鑿にかかるものなり。伝え聞く宝暦年間本郡南部に新らしく耕地の開墾せらるるや、北一色地方一帯の悪水は、爲めに停滞して米作意の如く穰らず、農民甚だ患ふるに至れり、徳左衛門乃ち拮据経営、水路を穿ちて悪水の排水を講ぜしかば、積弊茲に除かれて、更に幾多の良田を得たり、里民喜びて氏を徳とし、新に成れる田を新田と称し、水路を徳左川と呼ぶに至れりと、寛政二年病んで歿す、嗣絶えて後裔なし。