おいせかわ/なかがわ

笈瀬川/中川

笈瀬川/中川の流路図
笈瀬川/中川の流路図

<基本データ>

名称  笈瀬川/中川

種別  自然河川/悪水路

形態  下水幹線/運河開削により消滅

延長  約12km

流域  名古屋市西区・中村区・中川区・港区

 

 

<くわしく>

現在の西区児玉付近に流れを発していた自然河川であり、悪水路である。押切から名駅の西を経て、米野・露橋と南流、途中で庄内用水米野井筋や同じく庄内用水の東井筋(江川)の残り水などを合流しつつ熱田前新田に至り名古屋港へと注いでいた。中川運河の前身になった川であり、また中川区の名前の由来にもなった。上流部は下水幹線として暗渠化されている。支流に古川徳左川があるがいずれも現在は埋め立てられている。

上流では笈瀬川、下流では中川と呼ばれた。「徇行記」には、丸米野村の説明中「中野外新田の橋より南を中川と言う」とあるので、およそ現在の国道一号線以南がもとの中川の範囲である。

「愛知郡誌」には、「源を西春日井郡名塚の悪水より発し、南流して逐次悪水を集め、幅漸く広きを加え笈瀬川と称す。同郡の児玉、名古屋の押切町を横過して南押切に入り、本郡中村の則武、愛知町の牧野を過ぎ、露橋に至り、一派東して堀川に注ぐ。幹流はなお南下して、四女子・篠原・熱田新田東組等を経、熱田前新田に至て内海に注ぐ」とある。

 

中流部には、笈瀬川から分かれ堀川へ流れ込む2つの水路があり、それらはより排水能力の高い堀川への放水路としての役割を果たしていた。その内、佐屋街道の北に沿って流れていた新堀割は、正徳元(1711)年に開削された(寛保元年(1741)年とする説もある)。「堀川 歴史と文化の探索」によると、開削用地に充てられた農地の所有者には、土地使用料にあたる「井領米」が関係する村々から毎年払われていたという。

堀川の護岸には長らく新掘割合流の痕跡が残っていが、しかしこれは平成30(2018)年に行われた護岸工事によって失われた。

 

堀川護岸にあった新掘割の痕跡(「堀川」より)
堀川護岸にあった新掘割の痕跡(「堀川」より)

 

新掘割の少し北ででは笈瀬川支流の徳左川が合流しているが、これは流域の水害対策として宝暦年間(1751~64)に人工的に開削されたもので、その位置関係から新掘割の存在を念頭に置いた開削であったとも考えられる。

また三間杁筋(無三殿杁江とも)は庄内用水米野井筋の合流点近くで分流しており、関連が窺われる。

笈瀬川と堀川を結んでいた2つの流れ。米野井筋、徳左川との位置関係
笈瀬川と堀川を結んでいた2つの流れ。米野井筋、徳左川との位置関係

 

笈瀬川と三間杁筋(無三殿杁江)の分流していたすぐ南側に「無三殿橋」という橋があった。この橋は笈瀬川に架かっていたもので、その親柱が笈瀬町の神明社前に移設され保存されている。左右に2本、それぞれ「むさんどばし」「明治四十四年三月架橋」と書いてある。この親柱について名古屋市のホームページには「中川運河の前身「笈瀬川」に架かっていた「むさんどはし」(明治45年3月架設)と刻した欄干のレプリカがある」との記載があるが、明治45年は明治44年の間違いだと思われる。また「レプリカ」とされているが、わざわざこんなものを果たして複製するだろうか疑問だ。欄干と接続していた痕跡があることからも、単に移設して保存しただけではないかと思う。


 

三間杁筋(無三殿杁江)については、西日置の鹽竈神社にある「無三殿神石之由来」という石碑に詳しく書かれている。碑文は以下の通りだ。

 

無三殿杁江ハ往時尾張名勝ノ一ニシテ堀川ノ西日置古渡ニ在リタリ 當時江川笈瀬川ノ用水路アリテ此ノ所二會セリ然レドモ水位髙低甚ダシキヲ以テ合流スル能ハズ 仍チ樋ヲ笈瀬川ノ上二架シテ江川ヲ南流セシメ笈瀬川ハ樋下ヲ東流シ河口ノ水門ヲ過ギテ堀川二通ゼリ 今ノ松重町南端一帯ノ地ハ即チ此ノ流域ニシテ里人無三殿ト呼ビタル杁江タリシ所ナリ 延寳ノ頃松平康久入道無三此ノ江北ノ地二住セリ 江名之ヨリ起ル

江水清澄ニシテ深カラズト雖古來靈鼈ノ潜ム所ナリト稱シ畏敬シテ瀆ス者ナシ 樋邊一巨石アリ無三殿主神ト刻ス 痔疾二靈驗著シト病者頻リニ來リテ治癒ヲ祈リ捧タルニ白餅ヲ以テシ或ハ之ヲ水中二投ズルノ風アリ逺󠄀近相傳ヘテ其の名大イニ著ハル 星霜變轉神石影ヲ没スルコト多年偶江川線改修工事ノ際靈夢ヲ得タル者アリ乃チ發掘シテ之ヲ水底ヨリ求メ得タリ 暫く町神トシ近隣二奉祀セシガ神慮ヲ畏レ當塩竈ノ社頭二遷祀シタルモノナリ 今歳昭和甲戌當神社社殿造營ノ擧アリ規模大イナルコト前古二比ナシ   記念トシテ硑ヲ神石ノ側二建テ由來ヲ記シテ不朽二傳スルモノナリ

昭和九年十月

 

(裏)

奉献  中區西日置町出先 木村與吉

 

 

三間杁筋(無三殿杁江)が流れていたのは、現在山王通がある場所だ。この水路は笈瀬川から分水したものだったので、その水位差の関係から、用水路である江川(庄内用水東井筋)には合流できなかった。排水路である笈瀬川より江川のほうが高い位置を流れていたためであり、そのため江川には樋を架して立体交差させていたと書かれている。

 

延宝(1673~1681)の頃、松平康久入道無三という人物がこの水路の北に住んでいたことから、この辺りを「無三殿」と呼ぶようになり、そこから水路にも「無三殿杁江」という名前が付いたようだ。この水路は三間杁筋という名前でも知られている。「杁」というのは尾張国の独特の漢字であるそうだが、水路を分水するための設備のことを言う。笈瀬川から無三殿杁江への分水を「無三殿杁」と言った。そしてその杁のたもとに架かっていたのが、先述の「無三殿橋」である。

 

碑文にある「靈鼈」については、「笈瀬川の河童伝説」の項で後述する。

笈瀬川は大幸川と繋がっていた?

笈瀬川/中川の流路は元は庄内川や矢田川の旧流路であったのだろうと思う。

笈瀬川の水源は先述のように名塚町辺りの悪水であるとされるが、しかし江戸時代以前においては、名古屋台地の北、矢田川の南を流れていた「大幸川」が笈瀬川の上流だったのではないか。さらにその源流は矢田川に求められ、現在の北区低地部を流れていた自然流路のひとつだったのではないかと思うのである。

後の大幸川→笈瀬川/中川に、かつてこんな感じの流れがあったかもしれない
後の大幸川→笈瀬川/中川に、かつてこんな感じの流れがあったかもしれない

 

この地は太古は入海であった。また太古は大河の川筋で水源は三州猿投山である。今の御深井丸の地は、その川の深いところであった。

これは天保後期~弘化年間頃に成立した「金鱗九十九之塵」に記されている名古屋城北側の一帯についての一文だ。大河の川筋があり、そしてその川の水源が三州猿投山だったという。現在の矢田川も猿投山が水源のひとつであるから、「大河」というのは矢田川のことであると考えられるのだ。

 

つまりかつての矢田川は、名古屋台地の北縁に沿って流れ、台地の北西でくるっと南に曲がって現在の笈瀬川/中川に繋がっており、次第に庄内川や矢田川の流路が北へ、西へと移動していく中で、かつての流路跡にいくつもの小河川を残した。大幸川→笈瀬川/中川の流路もそのひとつであったと考えることができる。

 

大幸川は名古屋城郭ができると流路を北に移し、江川(東井筋)に流れ込むように改修されている。 

面白いのは、笈瀬川と江川(東井筋)が押切で接続していたために、江川を介してではあるが、その後も大幸川の水が笈瀬川に流れ込んできていたということ。天明4(1784)年に大幸川は江川から切り離され、新たに開削された水路(黒川の前身)で堀川に流れ込むよう付け替えられた。この時はじめて、大幸川→笈瀬川/中川の水の流れは完全に失われたと言ってもいいだろう。

 

 

笈瀬川の支流の1つであった古川の大蛇行も小河川にしては不自然さを感じずにはいられない。こちらは大幸川方面からの流れと直接関連付けることは地理的に無理があるが、すぐ北の庄内川から分かれた流れのひとつだったという可能性はありそうだ。

広い平野を庄内川や矢田川が幾重にも分かれ合わさりながら流れていた。そうして自然堤防がいくつもできて、やがてそこに集落ができた。そんな歴史の中で大昔の川筋が古川の蛇行として残ったのだとすれば、とってもロマンのある話である。

 

 ーーーもっともこれは全く推測の域を出ない話であるが。

「オイセ」って何?

「尾張志」(天保15(1844)年)に「此オイセといふ文字を近世老瀬とも負瀬とも書するものあれど、是はもと伊勢川といふ名は御といふ尊称をそへたるなれば御伊勢とかくべき也、このあたりは往古に伊勢大神宮の神領にて一楊の御厨といへる此処を伊勢方といひける事あり、其神領地にある川ゆえ伊勢川といへる也、伊勢山をオイセ山といふ同例なり」とある。また、文明元(1469)年秋に「大神霊」の文字が書かれた白幡が降りこの川を流れたので、伊勢神宮を勧請したためとも、元和年間(1615~23)に伊勢神宮の大麻と木馬が降ったので、尾張藩祖義直が神明社を勧請して伊勢山伊勢橋などと名づけたとも言い伝えられている。このように諸説ある状態ではあるが、「御伊勢川」から転じたという部分はいずれの話にも共通している。

 

勧請された神明社のうち、椿神明社は伊勢神宮の外宮にみたてられ、豊宇気比売神(とようけひめのみこと)が祀られている。五十鈴川を渡る気持ちで笈瀬川を越えれば、川東には牧野神明社が。こちらは椿神明社の外宮に対して内宮にみたてられ、天照大神を祀っている。ここでは笈瀬川を中心に名古屋版の伊勢神宮が展開されているのである。

名古屋版のお手軽おいせまいり
名古屋版のお手軽おいせまいり
椿神社。中央新幹線の建設に関わる社殿移設工事で境内は一変
椿神社。中央新幹線の建設に関わる社殿移設工事で境内は一変
牧野神明社
牧野神明社

江戸時代以降の笈瀬川/中川

現在の小栗橋付近より下流は川幅が広く、舟の行き来が盛んであったようだ。このため、名古屋城築城の時にはこの川を利用して石材や木材等を運ぶのに使用された。笈瀬川が流れていた頃、現在の小栗橋(中川運河に架かる橋)のあたりは「頓ヶ島」と呼ばれており、そこに船溜まりがあったという。中川から笈瀬川に至り運ばれた石垣石は露橋のあたりで陸揚げ・加工されて、陸路で名古屋城へと運ばれていった。その際残置されたと思われる刻印の入った石(これを残石と呼ぶ)が流域の寺社で多数見つかっている。

      

中川運河沿いにある西宮神社には「名古屋築城石切場跡」の碑がある。昭和11年、東進耕地整理組合によって建てられたものだ。境内には印の刻まれた残石もある。付近の残石を巡ったブログも併せてどうぞ。

西宮神社の「名古屋築城石切場跡」碑
西宮神社の「名古屋築城石切場跡」碑
境内の残石。みかんの断面みたいな刻印がある
境内の残石。みかんの断面みたいな刻印がある

 

 

寛永年間(1624~43)には川を掘り下げ流路もなるべく真っ直にする工事が行われた。これは、水深が浅くなって悪水路の用をはたせなくなり十分に耕作ができなかったためであり、新しい水路は「新規堀」とも呼ばれ、また地名から「則武川」とも呼ばれていた。現在の牧野小学校北で古川が合流していたのだが、その地点より上流の流路が下流に比べ直線的であるため、そこがおおよそ新規堀の区間なのだと思われる。元は古川の方が本流であって、故に古川の名称は、新たに掘り下げた新規堀に対してのものであると考えることもできる。

江戸時代中期までは、押切村(現・押切町など)で江川と接続しており、水量も多かったが、天明4(1784)年に、従来は江川に流入していた大幸川が堀川に接続されたため流入する水量が減少し、その後、笈瀬川と江川は分離され、単に悪水路として利用されるだけになった。

 

「愛知郡誌」には「長さ、およそ2里23町(10.5km)幅4間3尺(8.2m)ないし39間3尺(71.9m)、もっぱら悪水疎通の用に供す」と、記載され、「大正・昭和名古屋市史」には「かつては田舟を利用して耕作地に赴くものさえあり、水郷の景観であった」と記されている。また、中川にはうなぎが多く、長さ1.8mもの大うなぎも時々見かけられたという。

在りし日の笈瀬川1 (撮影地点不明、「まきの」より)
在りし日の笈瀬川1 (撮影地点不明、「まきの」より)
在りし日の笈瀬川2 (撮影地点不明、「まきの」より)
在りし日の笈瀬川2 (撮影地点不明、「まきの」より)

権現橋 (現在の榎小学校北交差点、「西区70年のあゆみ」より)
権現橋 (現在の榎小学校北交差点、「西区70年のあゆみ」より)
権現橋の欄干は近くの白山社で玉垣として使われている
権現橋の欄干は近くの白山社で玉垣として使われている

古い笈瀬の川埋めて 日ごとに街は栄ゆく

このように悪水路で貧弱な河川であったが、市域編入後、幅員・水深拡張が取り上げられたりして、結局大正15(1926)年度より開始された西部下水道幹線築造工事の一部として暗渠化され、下水道幹線に転用されることとなった。西部下水道幹線築造工事では他に、江川(東井筋)を下水道「江川幹線」とする工事や、「西古渡幹線」の築造、またそうした幹線の流入先として露橋抽水場の建設がなされた。

 

これら一連の工事は、昭和4(1929)年3月に内務大臣から認可を得て着手され翌年4月に着工、設計変更や工期の延長を経て昭和8年3月に竣工した。その後露橋抽水場では施設が増設され、昭和8年11月からは下水の簡易処理を開始、さらに、中川運河の水質汚濁防止のため活性汚泥法による高級処理施設の建設に着手し、昭和11年11月に完成している。現在の露橋水処理センターである。

 

こうして笈瀬川は管径1,400~3,640mm、円形および馬蹄形の暗渠となり「笈瀬川幹線」へと名前を変えて今に至るのである。排水区域は旧市街地西側の一帯すべてに及び、下の「名古屋市西部下水幹線築造計画平面図」中、赤で囲まれている範囲がそれだ。笈瀬川幹線の上部は笈瀬通となり、今ではかつての面影をみることが出来ないほど面目一新してしまった。

名古屋市西部下水幹線築造計画平面図(部分)
名古屋市西部下水幹線築造計画平面図(部分)
露橋抽水場一般平面図に加筆
露橋抽水場一般平面図に加筆

 

笈瀬川沿いにある牧野小学校の校歌には「古い笈瀬の川埋めて 日ごとに街は栄ゆく」と、暗渠化とその後目覚しい発展を遂げた駅西の街の様子が歌われている。全くもって素晴らしい歌詞だと言わざるを得ない。

一方、おおよそJR関西線以南は昭和7(1932)年までに中川運河として運河化された。中川運河については別途ページを分けてまとめた。

開削中の中川運河。詳しくは上のボタンから!
開削中の中川運河。詳しくは上のボタンから!

中川運河の整備によって、笈瀬川・中川は流路の大部分が運河および沿線の工業用地に取り込まれ消滅した。しかしながら露橋付近の一部の区間では笈瀬川と運河とが大きく外れた経路を取っていたため、そこに笈瀬川が取り残される形で昭和9(1934)年まで存在し続けていた。運河の完成は昭和5(1930)年のことであるから、双方の水面が共存していたのは約4年間ということになる。

露橋付近、取り残された笈瀬川の概略図
露橋付近、取り残された笈瀬川の概略図

 

取り残された笈瀬川は下流で中川運河へと注いでいた。中川運河では開削に併せて沿岸に工業用地が造成されたが、その部分に名古屋市によって暗渠を築造し、以って笈瀬川の水を中川運河へと流していたのだ。その様子が「中京土地区画整理組合地区整理面」に描かれている。特筆すべきは、暗渠の合流口が今も当時のまま残っているということ。現代において唯一目にすることが出来る「笈瀬川」であるとも言える、貴重な遺構である。

「中京土地区画整理組合地区整理面(部分)」
「中京土地区画整理組合地区整理面(部分)」
今も残る暗渠の合流口
今も残る暗渠の合流口

 

これらのことについては以下のブログに詳しいので併せて参考にされたい。


下の2つの地図は同範囲の中川運河開削前後のもので、もとの笈瀬川/中川の流路は運河の開削とそれに伴う沿線の工業用地に飲み込まれほとんど失われているのが見て取れる。以後流域では工業化とともに都市化が進んでいくこととなる。

1920年、運河開削前の笈瀬川/中川
1920年、運河開削前の笈瀬川/中川
1932年頃、開削直後の中川運河
1932年頃、開削直後の中川運河

残る痕跡 ~笈瀬川/中川の今~

駅西を縦断する笈瀬川の流路跡
駅西を縦断する笈瀬川の流路跡

西区から中村区にかけての鉄道高架下には、道路に対してななめに横切る笈瀬川の空間が残されており、下水幹線の上部空間は「笈瀬川自転車駐車場」として活用されている。施設や店舗等を含め、現在「笈瀬川」の名前を残しているのはここが唯一だと思われる。

中村区内においては、全区間で川跡がそのまま「笈瀬通」になっている。通りの一部は笈瀬本通商店街になっており、笈瀬川の河童(かっぱ)伝説(後述)に基づいて各所に河童の銅像が置かれるなど、「かっぱ商店街」として親しまれている。

高架下の暗渠
高架下の暗渠
笈瀬川自転車駐車場
笈瀬川自転車駐車場

銅像になった河童
銅像になった河童
平成、令和をじっと見つめる河童
平成、令和をじっと見つめる河童

中川区・港区では、中川運河の開削とそれに伴う沿線の工業用地造成によって、ほとんどの流路跡は痕跡もろとも失われた。現在、月島町と笈瀬町の一部及び市立玉川小学校東の道の形にのみその名残を留めている。この内、月島町の道路の下には下水道「笈瀬川幹線」が流れている。笈瀬町は運河開削の際に取り残されて、区画整理の後も笈瀬川が流れていたと先述した場所で、ゆえに道路として残った。また、玉川小学校東の道の西側には「熱田前新田東組西川縁」という字名が現在まで残されている。中川の西縁という意味での字名ではないかと推測される。

月島町の笈瀬川跡
月島町の笈瀬川跡
笈瀬町の笈瀬川跡
笈瀬町の笈瀬川跡

笈瀬川の河童(かっぱ)伝説

笈瀬川には河童がいたという伝説がある。例えば、尾張名所図会「椿の森の河童」に載っているのはこんな話。

 

昔、河合小伝治という老士が巾下の西に住んでいた。宝暦6(1756)年7月3日、曙の景色を見ようとして押切田面を歩いていると、7、8歳ばかりの小児が一人あとを付けてきた。これが「かっぱ」であり、強い力で小伝治の肩に力をかけて引き倒そうとした。小伝治は勇強な男であったのでこれを捕え、にらみつけるとかっぱは笈瀬川へ飛び込んで逃げていったということである。

(牧野小学校90周年記念誌「牧野」より)

 

椿の森とは名古屋駅西の椿神明社のことであるが、押切とは2kmほど距離がある。これについては小伝治が椿の森の近くまで来ていたという話と、逆に河童が笈瀬川を押切まで遡上していっていたという話があって、どちらなのかは分からない。

尾張名所図会・椿の森の河童
尾張名所図会・椿の森の河童

 

尾張名所図会の話ではお侍にやられてしまう河童だが、他にこういう話もある。

 

わしは、おいせ川のかっぱ 川太郎だ。川岸にはお宮の森がある。何十本もの大椿がしげっているので、椿の森と呼んでいる。わしの口先はとんがり、目玉はぎょろり、頭のてっぺんにさらがある。足にも手にも水かきがあるので、泳ぎが上手い。それに誰にも負けない力持ちさ。

いちばん得意なのは、十くらいの男の子に化けることだ。わしの仲間は、山近い玉の川の”かりのがふち”にすんでいる。あいつらは夜更けに通る人を、川の中へ引っ張り込むという悪いやつだ。

わしは、そんな悪いことはやらんよ。

ある日の夕方だった。ごんさが釣りをしていた。ごんさは乱暴者で、みんなを困らせている。わしは変身、男の子になって近寄った。

「ごんのおじさん、何が釣れた。」

「フナとナマズで、十匹ばかりさ。」

「美味そうだね。一匹おくれ。」

わしの出す手を、ごんさが握った。わしはぎゅっと握りかえした。

「いてててて。すげえ力だな、小僧。」

村いちばんの力持ちだといばるごんさも、わしの力にゃかなやせん。

「えい、やっ。」

ドボーンと川へ投げ込んじゃった。

「いばるな。椿の森のかっぱ 川太郎たあ、わしのことさ。わっはっは。」と、土手の上から言ってやったよ。

(親子で楽しむあいちのむかしばなし1「おにのいわがっせん」より)

 

笈瀬川に棲んでいた河童は悪いやつではなかったようだが、力自慢で、男の子に化けていろいろいたずらを仕掛けていたようだ。椿神明社は、令和2(2020)年までは大木が生い茂りまさに森の様相を示していたが、リニア中央新幹線名古屋駅建設に伴う社殿移設工事に際して、ほとんどの木が伐採されてしまった。今は森という表現とは全く似つかない状況だ。

 

 

また、河童には人助けをする優しい一面もあった。

 

おいせ川は子供の天国だ。その日も大勢泳ぎに来た。

わしは子供が大好きで、川穴の中から見ていた。いたずらなんか絶対せんよ。みんなヤナギから飛び込んでバタバタ、へたくそな犬掻き泳ぎだ。

「おうい、三平がおぼれるぞう。」

突然ヤナギの上からの声だ。

「よしっ。」とわしはあっぷあっぷの三平に近づき、抱かかえると、ぐんぐん川岸へ押し上げてやった。だけど、しまった。わしはうっかり姿を見せちゃったんだ。

「うわっ、かっぱだ、かっぱだ。にげろっ。」

ヤナギの上から大声だ。わしはびっくり、大慌てで川穴へ逃げ込んだ。

(親子で楽しむあいちのむかしばなし1「おにのいわがっせん」より)

 

このことがあってから、河童は「人助けの河童」として人々に親しまれるようになった。笈瀬本通商店街を「かっぱ商店街」と称すのは、この伝説にちなんで”家計を助ける”商店街、という意味もあるようだ。

柳街道との角にいる河童
柳街道との角にいる河童
「かっぱの由来」
「かっぱの由来」

 

以上の河童伝説は、いずれも椿の森(椿神明社)やかつての牧野村(笈瀬川と柳街道の交わる辺り)での話である。笈瀬通に河童の銅像があることもあり、ふつう、笈瀬川の河童といえばこの中村区内での話が有名である。しかし実は、笈瀬川の河童伝説はこれだけにとどまらない。

 


笈瀬川から分かれて堀川へ注いでいた三間杁筋(無三殿杁江)にも河童が棲んでいたという伝説がある。先述の鹽竈神社「無三殿神石之由来」には靈鼈(=亀または河童の意)として登場する。以下は碑文の一部だ。

 

江水清澄ニシテ深カラズト雖古來靈鼈ノ潜ム所ナリト稱シ畏敬シテ瀆ス者ナシ 樋邊一巨石アリ無三殿主神ト刻ス 痔疾二靈驗著シト病者頻リニ來リテ治癒ヲ祈リ捧タルニ白餅ヲ以テシ或ハ之ヲ水中二投ズルノ風アリ逺󠄀近相傳ヘテ其の名大イニ著ハル 星霜變轉神石影ヲ没スルコト多年偶江川線改修工事ノ際靈夢ヲ得タル者アリ乃チ發掘シテ之ヲ水底ヨリ求メ得タリ

 

この碑がある鹽竈神社の境内には、痔病の治癒に霊験著しい河童の神様、無三殿主大神(愛称「むさんどさん」)を祀る無三殿社がある。一般的には河童に尻を見せると尻子玉を抜かれると言われているが、三間杁筋(無三殿杁江)の河童は痔を治してくれたという。碑文によれば、三間杁筋(無三殿杁江)の近くに「無三殿主神」と刻された巨石(無三殿神石)があったという。これがそもそも河童とどういう関係があったのかは分からないが、おそらく河童信仰を象徴するものとして、昭和9(1934)年より無三殿社の御神体となっている。

 

なお、無三殿社前の説明板には江川に河童がいた、あるいは山王橋から堀川へ尻を映す云々という話が書かれており、河童は必ずしも三間杁筋(無三殿杁江)にのみ棲んでいたわけではないらしい。しかしながら、この説明板は比較的新しいものであるから、三間杁筋(無三殿杁江)の存在が忘れ去られている可能性もある。

 

無三殿大神。奥の祠に巨石が収まっている
無三殿大神。奥の祠に巨石が収まっている
無三殿社前の説明板
無三殿社前の説明板

 

椿神明社の辺りの河童、そして三間杁筋(無三殿杁江)の河童。すでに4つの伝説を紹介しているが、さらにそれらの間に位置する「猿子橋」も河童との関係が窺われる。猿子橋は中川運河に架かっている橋で、名前はかつて笈瀬川沿いにあった地名「猿子」に由来する。読みは「えんこ」だ。河童は猿と見間違えられたことから「猿侯(えんこう)」ともいわれており、その名前から、この辺に河童が住んでいたのではとする説があるのだ。

 

なぜ笈瀬川流域にのみこれほど「河童」が見え隠れするのか。笈瀬川と河童の関係性については非常に興味深いものがある。


作成 2020/03/03

更新 2020/04/14、2020/09/17、2021/03/31

参考 (書籍)

   中村区誌

   中川区史

   まきの

   堀川 歴史と文化の探索

   (webページ)

   名古屋市「中川運河周辺の見どころ

資料 名古屋市西部下水幹線築造計画平面図(名古屋市市政資料館 蔵)

   露橋抽水場一般平面図(同上)

   中京土地区画整理組合地区整理面(同上)

   1920年、1932年頃の旧版地図(今昔マップより)