成願寺杁について

成願寺杁

 

『名古屋市 庄内用水路』にある説明

本樋菅は、矢田川を伏越して横断し、用水、悪水併用樋管にして、用水路は庄内川より取水、悪水は守山町県道犬山線より西約三〇町歩の悪水を泥下させるため調整す

 

あれ?こんな所に杁があったんだ。矢田川を伏越して庄内川に・・・ということは、この記述は昭和5(1930)年よりも後のものだろう。かつて成願寺・中切・福徳からなる川中三郷は、北を庄内川に、南を矢田川に挟まれて輪中を形成していた。この輪中を解消するため、昭和5(1930)年、矢田川が庄内川に沿うように付け替えられ、川中三郷の北側を流れるようになった。

付け替え後は(今も)、成願寺村と庄内川の間には矢田川が横たわっている。だから、庄内川で取水した水を川中三郷へ流すのに、間で矢田川を伏越しなければならないということは、つまり昭和5(1930)年以降の話であるということを示している。

 

こんなところにも伏越が作られていたとは驚いた。庄内川から用水を引くためには、「矢田川を伏越して横断」しなければならなくなった、ということ。理屈の上では、確かにその通りだ。しかし三郷悪水に水源があったのだろうか。

 

三郷悪水は川中三郷を流れていた水路で、黒川開削以前は庄内用水として使われていた。従来、黒川開削後の三郷悪水については、庄内用水の本流を外れ、専ら排水路として使われるようになったと説明されており、自分もそういう理解だった。しかし、もちろん排水の役割もあったことは明らかだが、それに加えて庄内川から取水することで、川中三郷の灌漑にも供されていたということを示しているのが『名古屋市 庄内用水路』における成願寺杁の説明文であると思う。

 

内容を整理するため、成願寺杁の変化を時代ごとにA~Cの3期に分けたい。

A期:黒川開削前

B期:黒川開削~矢田川付替え

C期:矢田川付替え以降

 

従来の説明では、B期・C期は単に排水路として存在していたとされてきた。しかしB期においては、旧版地図に庄内川から取水する杁の存在が認められることから、灌漑用水としても使用されていたことが明らかになった。庄内用水が通らなくなったとしても、川中三郷では稲作を続けていかなくてはならない。その為の水源が成願寺杁だった。すると、成願寺杁が設けられたのは、黒川開削後、B期からだったのだろうか。庄内用水があれば独自の杁は必要ないはずで、黒川開削で水源を失ったことで新たに川中三郷向けの杁を新設したのではないかと考えた。しかしそれは間違いだった。実は、成願寺杁はA期、江戸時代から既に存在していたのである。その詳細は「成願寺杁の成立」の項で後述したい。

明治26年の旧版地図に加筆, [ウェブで過去の地形図や空中写真を見る]より
明治26年の旧版地図に加筆, [ウェブで過去の地形図や空中写真を見る]より

 

冒頭の『名古屋市 庄内用水路』で説明された、矢田川を伏越する構造の成願寺杁はC期にあたる。B期の成願寺杁は地図で確認できるが、C期を航空写真で見てみても、正直言って伏越や杁が存在しているようには見えず、よく分からない。だから、B期にはあってもC期には失われていただろう、などと考えていた時期もあった。けれども、どうやらそうではないらしいということは先述の通りである。C期の成願寺杁については、よく分からない部分が多いが、航空写真などから読み取れることについて、「成願寺杁のその後」の項で後述している。


成願寺杁の成立(A期)

成願寺杁は、守山区内を流れる古川(あるいは神戸川、あるいは八ヶ村悪水、時代によっては五ヶ村悪水)のかつての流末にあたるものと考えられる。

 

古川の元となった白沢川は、庄内川ではなく、瀬古村で矢田川に注いでいた。しかしそれから色々あった。まず、瀬古村で矢田川に流入していたのが改められ、成願寺村で庄内川に流入するよう流路が延長された。その後、今の白沢渓谷のところに付替えられて庄内川への急転直下ジェットスライダー型流路に進化を遂げたことで、取り残された下流部が「古川」という新たな名称にして陳腐な呼び名を授かることと相成ったのである。

 

『守山市史』から「乍恐以書付奉願候御事」を以下に引用する。

 

春日井郡瀬古村輪中悪水溜り之儀、連々矢田川筋水出の節、山々より砂大分押出し、年々川高にまかり成り、右の悪水一円に落ち兼ね、今ほどは少しの水にても内の溜り多く、山田村・守山村・幸心村・瀬古村以上四ヶ村の田畑度々水かぶり、勿論百姓の居屋敷並に竈迄(カマド)も水吹き出し、殊に往還通りは折々通路も留り申体に御座候。右脇々の小道筋へ人馬の通ひ曽て罷り来り不申候。別して近年打ち続き水損仕、百姓殊の外困窮に及び迷惑至極仕候。仍之奉願候ハ瀬古村地の内より、成願寺村地の内まで堀割り、味鋺川筋え落し申様に仕度候。右成願寺村の地内堀割申儀は、双方納得にて四ヶ村より敷金出し買申候故、成願寺村の障りにも御座なく候。当春御見分遊ばされ御普請仰せつけられ下置かれ候様、杁代井屋敷地代人足ハ村々御給人方より御出し下され候筈に御座候。奉願候通仰せつけなされ下置かれ候ハバ有難可奉存候。

以上

 

  元禄十六年未正月

 

   春日井郡瀬古村

    下条 庄右エ門 庄屋 権三郎

   (以下署名続く。省略する。)

 

連々矢田川筋水出の節、山々より砂大分押出し、年々川高にまかり成り」とあり、次第に矢田川の川底が高くなって排水が滞るようになっていた。そのため、「之奉願候ハ瀬古村地の内より、成願寺村地の内まで堀割り、味鋺川筋え落し申様に仕度候」とあるように、瀬古村から成願寺村に至る新たな水路を開削し、これを以って味鋺川(=庄内川)に合流させよう!ということになった。もともと矢田川に流れ込んでいた地点は明確ではないが、おそらく現在の守山区瀬古1丁目、矢田川伏越のある辺りだったのではないかと考えられる。

 

元禄16(1703)年1月の文書で、「当春御見分遊ばされ御普請仰せつけられ下置かれ候」とあるから、その後工事が行われて、まあおそらく同年中に完成していたのではないかと思う。

 

明治26年の旧版地図に加筆, [ウェブで過去の地形図や空中写真を見る]より
明治26年の旧版地図に加筆, [ウェブで過去の地形図や空中写真を見る]より

 

その後、『尾張徇行記』によれば寛政2(1790)年・『名古屋市 庄内用水路』によれば寛政3(1791)年・『タウンリバー庄内用水』によれば寛政4(1792)年に、庄内用水と御用水の上流部が一体化され、川村での取水が始まった。庄内用水は矢田川の北で御用水と分かれて西流し、瀬古村から成願寺村を経て福徳村に至る川中三郷の水路を流れるようになった。年についての情報が錯綜してる感が否めないが、まあだいたい1790年頃であることは間違いない。

 

この時、元禄16(1703)年に瀬古村から成願寺村まで開削されていた水路(古川の下流部)が、庄内用水の新流路の一部として利用されたと考えられる。であるからして、成願寺杁と庄内用水は接続していたわけだ。

明治26年の旧版地図に加筆, [ウェブで過去の地形図や空中写真を見る]より
明治26年の旧版地図に加筆, [ウェブで過去の地形図や空中写真を見る]より

成願寺杁の活用(A期)

文政5(1822)年『尾張徇行記』の成願寺村の条に以下のように記されている。

庄内用水捨杁長十一間巾二間高五尺作方伏方御入用届手傳銀井役

此杁ハ用水之溢レヲ味鋺川へ落ス為也又旱リニ庄内用水乏キ時ハ木津ニテ井揚ケヲシ木曽川ノ水ヲ新木津井ヨリ勝川ヘ引落シ成願寺ニテ大川ノ水ヲ堰トメ此杁ヘ水ヲ引庄内用水ノ助ケトス是ヲ助水ト云

 

新木津用水は八田川を経て庄内川へ合流しているが、その地点は当時庄内用水の取水口があった川村よりも下流にある。「成願寺ニテ大川ノ水ヲ堰トメ」という記述からも、ここでいう「庄内用水捨杁」とは成願寺杁のことだろう。文中、現在の庄内川を指す呼称として「味鋺川」「勝川」「大川」と3つも名前が出てくるのが面白い。これ恣意的にやってるのでは。同じ用語を繰り返さない方がセンス良かったりしたんだろうか。

 

この『尾張徇行記』の記述によって、寛政2(1790)年頃に古川下流部が庄内用水の新流路として利用されるようになって以降も、庄内川への排水が継続されていたことが分かる。瀬古村の絵図を見ると、庄内用水と御用水が分水され、そのすぐ下流の地点で庄内用水に古川が流れ込んでいる。古川からの水を合せることで当然本来の庄内用水より水量が増してしまうので、その分を成願寺杁で排していたということではないかと思う。そして新木津用水からの助水を受ける際には、その杁を利用して逆に庄内川から取水を行っていたということ。水不足の際に新木津用水から助水を受けることは、黒川開削後にも行われていた。その関係が江戸時代に遡る昔からのものだったことが分かる。

明治26年の旧版地図に加筆, [ウェブで過去の地形図や空中写真を見る]より
明治26年の旧版地図に加筆, [ウェブで過去の地形図や空中写真を見る]より

成願寺杁のその後(B期、C期)

 <B期>

明治10(1877)年に黒川が開削されると、庄内用水は矢田川の南を流れるようになった。庄内川と瀬古から成願寺杁までの水路を共有していた古川も、瀬古で黒川に流れ込むようになった。そのため、川中三郷を流れていたかつての庄内用水本流は上流と切り離され、古川についても成願寺杁から排水する必要がなくなった。

 

よって、成願寺杁が排水を担うべき役割は、冒頭の『名古屋市 庄内用水路』にある「守山町県道犬山線より西約三〇町歩」、つまり黒川より西側の地域の排水、および川中三郷で用いる灌漑用水の取水ということになった。

 

従来の説明では、B期になって川中三郷のかつての庄内用水本流が上流部と切り離されたことで水源を失ったため、福徳村から稲生村にかけて矢田川を伏越した先の下流部(稲生~大幸川(黒川))で使われていた「三郷悪水」の名前が上流に対しても使われるようになった、とされる。名称についての説明はおそらくこれで正しいとは思うが、実際には悪水のみを流していたのではなく(全く水源がなかったわけではなく)、成願寺杁から庄内川の水を取水することで、用水路としても使われていた。

 

<C期>

昭和5(1930)年に矢田川の流路が付替えられると、これまで川中三郷と呼ばれていた輪中は解消され、南側と一続きになった。このため、庄内川と三郷悪水の間には矢田川が流れるようになり、庄内川で取水し三郷悪水に繋がっていた成願寺杁は、そのままの形では存続し得ない状況になった。そこで、冒頭の『名古屋市 庄内用水路』にある「矢田川を伏越して横断」することになったのである。成願寺杁に設けられていた矢田川伏越に関しては、今のところこの記述のみでしか情報を得られていない。建設時の記録とか、図面あるいは写真など残されていてもよいと思うので、今後の新たな発見に期待したい。

現時点では、当時の航空写真を見て読み取れることを書いてみたい。

 

まず、最も古い陸軍撮影の空中写真であるが、これは撮影年月が不明とされている。昭和13(1938)年頃のものと思われるが、まだ矢田川の旧河道がほとんど旧態のまま残されている様子が確認できる。成願寺杁を見ると、三郷悪水が新矢田川の堤防に突き当たった地点から、河道と垂直方向に線があるように見える。この線が伏越であろうか。しかし庄内川の側には特段の構造物は見受けられない。

 

昭和13(1938)年頃, 地図・空中写真閲覧サービスより
昭和13(1938)年頃, 地図・空中写真閲覧サービスより

 

続いて、昭和22(1947)年に撮影された航空写真。これでもやはり矢田川河川敷の下に一筋の線が認められる。これが伏越なんだろうと思うしかないが、庄内川になんの設備もないように見えるのが謎である。堤防に取水口だけが開いていたのだろうか。

昭和22(1947)年, 地理院地図より
昭和22(1947)年, 地理院地図より

 

最後に、昭和30(1955)年に名古屋市が撮影した航空写真を見てみる。この写真は相当画質がいい。これまで単なる線としか認識できなかったが、よく見ると函型の構造物であるように見受けられる。伏越が河床から露呈しているのだろうか。だとしたらあまりよろしい状況ではないと思うが。しかしこの写真でも庄内川にはなんら取水のための施設が設けられていないようだ。取水口すらよく見えない。もちろん見えないだけかもしれないが、ほんとに庄内川から取水していたのか?と疑いたくなる。

昭和30(1955)年, 名古屋市都市計画情報提供サービスより
昭和30(1955)年, 名古屋市都市計画情報提供サービスより

成願寺杁については以前は存在すら全く知らなかったが、一応まとめておかなければ忘れてしまうくらいには情報が溜まってきたので、ブログに書いてみた。本稿で用いた呼称におけるA期、B期については、庄内用水の変遷とも密接に関わってくる部分であり、その歴史を理解する上での重要事項であると思う。しかれども成願寺杁の存在を念頭に置いた庄内用水や三郷悪水の説明はこれまでなされてこなかったのではないか。新木津用水からの助水の件などについては『尾張徇行記』のみを出典とせず、もう少し突き詰めて調べてみたい。

C期における成願寺杁の形態と矢田川伏越については、冒頭で引用した『名古屋市 庄内用水路』の短い文章と航空写真のみでは分からないことが多すぎる。これがこうでそれはそうでこうこうこうなっていたのです!と自信を持って述べられるほど情報を持ち得ていないので、今後も調べていきたい。


追記

成願寺杁から取水された水は三郷悪水に流れ込んでいたが、それを「成願寺用水」として書いている資料を見つけた。つまりは三郷悪水の上流部=成願寺用水ということだ。