ひがしいすじ(えがわ)

東井筋(江川) - 庄内用水

庄内用水東井筋(江川) 流路図
庄内用水東井筋(江川) 流路図

<基本データ>

名称 庄内用水東井筋

別称 江川、辻井筋

形態 埋め立て

開削 元亀・天正年間(1570~92年)

延長 約10.5km

流域 名古屋市西区・中村区・中川区・熱田区・港区

 

 

<くわしく>

庄内用水の井筋のひとつ。現在の西区向江町で庄内用水の本流(分水地点より上流を大江筋、下流を西江筋と言った)から分かれ、大江川(光音寺村からの悪水)や志賀用水の流末を合わせ南流し、幅下、日置などを経て、熱田前新田(現在の港区)で中川(笈瀬川下流部)に注いでいた農業用水路である。

 

全区間にわたり埋め立てられるか、暗渠化されている。庄内用水東井筋というのが正式な名称ではあるが、一般的には専ら「江川」と呼ばれる。ここでも以下「江川」と称したい。多くの区間が道路に転用されているものの、痕跡は少ない。ただ、西区城西の江川端商店街や名古屋市道江川線などに名前を残しているから、江川という名前自体の知名度は比較的高いのではないかと思う。柳橋中央市場で知られる「柳橋」も、元は江川と広小路との交点(現在の柳橋交差点)に架かっていた橋の名前だった。同じ広小路の堀川に架かる納屋橋の袂に、柳が植えられているからややこしい。柳橋は今はなき橋の名前であって、柳が生えているからといって納屋橋と混同してはならない。

在りし日の柳橋(「中村区まち物語」より)
在りし日の柳橋(「中村区まち物語」より)

 

庄内用水は元亀・天正年間(1570~92年)の開削であるが、江川もそうであるかは分からない。江川が流れているのは熱田台地の西縁に沿った位置であり、部分的には、農業用水として使われる以前から自然河川として存在していた可能性があるからだ。ただし、上流部においては江川の開削が大幸川から笈瀬川へ至る川筋を分断したとされており、庄内用水として人工的に開削されたものと考えられる。少なくとも断言できるのは、名古屋城築城の際に開削された堀川よりは古いということだ。水路の幅は2間(3.6m)ないし4間(7.3m)、深さは数尺(1m前後)で舟やいかだの通航はなく、産業面ではさほど使用されることもなかった。ただし万治3(1660)年の大火の後には、復興用資材として志段見山(現在の守山区)の材木を江川経由で運搬したという記録も残されている。(『金府紀較補遺』)


 

用途は主として下流にある水田の灌漑だったが、特に上流部においては排水路としての役割も果たしていた節があった。大江川など悪水路の水が合流していたし、かつては大幸川も江川に流れ込んでいた。しかし江川は本来農業用水路であるために排水能力が低かった。

明和4(1767)年7月12日の大雨では江川一帯に水がたまり、深いところで1.5m、数日間も水が引かないというような状態であった。この水害の経験から、天明4(1784)年、大幸川はより排水能力の高い堀川に流れ込むよう付け替えられ、江川とは切り離された。なお同年には、これも治水対策として新川の開削や洗堰の築造、庄内川堤防の改修なども行われている。

このように排水能力の低い江川には、すぐ東を並行して流れる堀川へ水を落すための水路が複数あった。それでも江川一帯は何度も水が溢れていたようで、明治27(1894)6月13日の洪水は写真が残っている。

現在の江川端通商店街の辺り(出典:写真に見る明治の名古屋)
現在の江川端通商店街の辺り(出典:写真に見る明治の名古屋)

 

江川では堀川と同じく鮒、鮠、鰻が獲られ、美味だと定評だった。かつては精霊流しや洗物、ごみ捨てにも使用されていたが、明治5(1872)年7月にはそれらを禁止する高札が立てられた。(『椋園時事録』)

大正年間には路面電車(後の市電江川線)が江川の西に沿って走るようになり、街は徐々に発展していった。しかし江川があるために全ての道路に架橋が必要だったり、また道路保全のために護岸を整備したりと負担が大きく、大正の中頃に至っては無用の長物扱いとなってしまった。それでも当時は下流部に広大な水田面積を有していたため、灌漑の必要上江川を埋め立てるということも出来なかった。

大正時代の江川(出典:Network2010)
大正時代の江川(出典:Network2010)

 

大正時代頃から道路交通の利便を増進するため、また市西南部の発展を見据えて江川廃止問題が採りあげられるようになった。大正11(1922)年4月7日には西区花車町(現・中村区名駅)の猪飼鐵太郎以下12名より、江川の敷地を道路として使用すべきだという旨の請願書が名古屋市会議長に宛てて提出されている。以下にその全文を転載する。

 

ー請願書ー

本市江川線は近時交通頗ル頻繁トナリ殊ニ洲崎橋明道橋間ノ如キ日々ノ混雑明状スベカラザル有様ニテ現ニ狭隘ヲ感ズルコト痛切ナレバ江川用水路ハ當然何等カノ方法ヲ以テ道路トシテ使用策ヲ講ゼザルルニ至ルハ遠キ将来ニアラザルベシト信ジ居候𠁅圖ラズモ同用水上ニ家屋ヲ建設セントスル人士アリト聞ク若シ此ノ如キ計畫ニシテ成ランカ沿川土地所有者及住民ノ被ル損害打撃は頗る甚大ニシテ死活問題ニ候勿論當局ニ於テハ斯ル都市計畫上相容レザル事業ヲ容認セラルルガ如キ事ナク絶對ニ排斥セラルベシト確信罷在候沿川地主ハ此際更ニ進ンデ江川用水路ヲ暗渠若クハ其他ノ方法ヲ以テ道路トシテ利用スベキ具體的設計ヲ建テ是ガ内示ヲ得バ應分ノ寄附モ敢テ辞スル所ニ無之候間一日モ速ニ實行ノ域ニ達センコトヲ切望スル次第ニ候

(注:一部端末だと「処」の異体字が表示されません)

 

 

「江川用水路ハ當然何等カノ方法ヲ以テ道路トシテ使用策ヲ講ゼザルルニ至ルハ遠キ将来ニアラザルベシト信ジ居候」とあることから、暗渠にするのか埋め立てるのかは未定にしても、いずれその敷地を道路として利用するというのは、この頃にはもう既定路線だったのだと思われる。その上で、「水上ニ家屋ヲ建設セントスル人士アリ」というのも驚きであるが、そうしたいわゆる違法建築物を排除する目的においても、早期に「暗渠若クハ其他ノ方法ヲ以テ道路トシテ利用スベキ具體的設計ヲ建テ」ることを求めるという内容の請願である。

 

この結果、西部下水道幹線築造工事の一部として昭和6年度より三ヶ年度継続の江川幹線下水道築造事業によって明道橋~露橋抽水場間は暗渠化されることとなり、江川の一部は下水道「江川幹線」になった。延長約3.3km、管径1,250~2,200mmの円形および馬蹄形管の暗渠で、排水区域は堀川以西笈瀬川以東の旧市街一帯に及んだ。西部下水道幹線築造工事では他に、笈瀬川を暗渠化して下水道「笈瀬川幹線」とする工事や、「西古渡幹線」の築造、またそうした幹線の流入先として露橋抽水場の建設がなされた。

これら一連の工事は、昭和4(1929)年3月に内務大臣から認可を得て着手され翌年4月に着工、設計変更や工期の延長を経て昭和8年3月に竣工した。その後露橋抽水場では施設が増設され、昭和8年11月からは下水の簡易処理を開始、さらに、中川運河の水質汚濁防止のため活性汚泥法による高級処理施設の建設に着手し、昭和11年11月に完成している。現在の露橋水処理センターである。

名古屋市西部下水幹線築造計画平面図(部分)
名古屋市西部下水幹線築造計画平面図(部分)
露橋抽水場一般平面図に加筆
露橋抽水場一般平面図に加筆

 

一部が下水幹線として暗渠化された江川だが、しかし下流部においては尚も灌漑の必要があったため、用水路についても浄心より山王に至る間に(下水幹線とは別途に)暗渠を築造し、山王において再び旧水路に流入させるということをした。この暗渠の延長は約5.5km、管径は1,100~2,000mmの円形および馬蹄形管であった。

 

江川が暗渠となったことでたちまち道路敷は広くなり、路面電車は真ん中を走ることとなって沿道の形態は一変。舗装道路になり、さらに今では上を高速道路が通っている。江川線沿いにおいては、往時の面影はまるでなくなってしまった。

江川は下流部の一部で百曲街道と並行していた。百曲街道は、慶安2年(1649)に熱田新田の干拓が行われた後、新田の北側に沿って自然にできたとされる道路で、くねくね曲がっていたため名前が付いたとされる。地図で見る限り特段曲がりくねっているということも無い気がするのだが、まあそれは置いておこう。

 

百曲街道に沿う形で江川線と分かれた江川は、現在の尾頭橋駅のすぐ東でJR中央線、名鉄名古屋本線、JR東海道線の築堤をくぐっていた。現地に行くと同じ形のトンネルが2つ並んでいる。現在は片方が車道、もう片方が歩道として使われているのだが、なぜ2つ並んでいるのかというと、実は東側(車道側)のトンネルはかつては人が通れず、江川の流路として使われていたのだ。ここには江川と百曲街道とが並行していたことの重要な証人が今もそのままの形で残っている。


 

この江川架道橋付近から佐屋街道に至る区間(下図参照)では昭和13(1938)年、用水路及びその堤部分の敷地が道路用地として名古屋市に寄付された。寄付者は西古渡神社なので、どうやら江川の土地は神社による所有だったようだ。道路用地ということは、江川を廃してその敷地を道路に転用するということである。その時の図面に「元庄内用水路」という表記があったり、「庄内用水路埋立地実測図」という図面があったりするので、寄付の前か後かは定かでないものの、江川架道橋を含む区間が昭和13(1938)年頃に埋め立てられたということは確かだろう。

用水路敷地寄付に関する図面(左が北)。黄色が江川、緑色がその堤敷である。
用水路敷地寄付に関する図面(左が北)。黄色が江川、緑色がその堤敷である。

 

同じ頃に撮影されたと思われる陸軍の航空写真(正式には撮影年月日は不明である)では、同区間がまだ開渠として残っている姿が確認できる。戦後、昭和30(1955)年に撮影された航空写真を見ると、当然この区間は埋め立てられているのであるが、さらにその下流も八熊通までの区間が埋め立てられているのが分かる。この頃になると江川流域でも区画整理が進んで耕地はかなり減少している。農業用水路としての(庄内用水の井筋としての)送水が具体的にいつまで続いていたのかは不明であるが、昭和13(1938)年頃には既に排水路としての役割が主だったと考えられる。ゆえに都市化が進み不用となった上流部から次第に埋め立てが進んだのだのだろう。

昭和11年頃撮影と推測される航空写真に加筆
昭和11年頃撮影と推測される航空写真に加筆
昭和30年撮影の航空写真に加筆。八熊通まで埋め立てが進んだ
昭和30年撮影の航空写真に加筆。八熊通まで埋め立てが進んだ

 

中川運河支線の南郊運河が開削されると、江川の流路は分断され運河へ流れ込む形となった。下流部の水路は昭和30(1955)年代まで残っていたが、流域の市街化の進展に伴って埋め立てられた。その後南郊運河も埋め立てられ、現在は南郊公園になっている。

江川 - いまむかし

分水地点。左から右に庄内用水が流れ、江川は奥へ続いていた
分水地点。左から右に庄内用水が流れ、江川は奥へ続いていた
弁天通、浄心観音堂の前にある「江川の碑」
弁天通、浄心観音堂の前にある「江川の碑」

江川跡に沿う「江川端通商店街」
江川跡に沿う「江川端通商店街」

在りし日の柳橋(「中村まち物語」より)
在りし日の柳橋(「中村まち物語」より)
現在の柳橋。撮影位置は違うが同方向、左カーブが変らない
現在の柳橋。撮影位置は違うが同方向、左カーブが変らない


作成 2021/01/21

更新 2021/03/02、2022/01/26

参考 名古屋市史地理編

   中村区誌(区政15周年記念, 50周年記念)

   中川区史

   名古屋市下水道事業史

   名古屋市上下水道局HP

   名古屋歴史ワンダーランド

資料 名古屋市市政資料館・蔵

    江川用水路暗渠道路化陳情書

    名古屋市西部下水幹線築造計画平面図

    露橋抽水場一般平面図

   航空写真

    地図・空中写真閲覧サービス

    名古屋市都市計画情報提供サービス