『参海雑志』


渡辺崋山・著

 

天保4(1833)年


一部抜粋、〔〕は筆者註 / 『渡辺崋山集 第2巻』による

  • 岩の花とて、乱菊のやうなる形にて色ハいたつて白ク明礬の質の如きものなり。他人これを持されバ必災を与ふるとぞ。
  • 正月より二月ニかけ東風吹、海あれる、三月四月西風あらく、五月より八月迄東風あらく、九月より極月迄西風あらし。
  • 寒明〔2月4・5日〕より百日目の大風ヲトウリンボウ〔突風〕ト云大風あり。
  • 潮ハ風とあらそひて、風北なれども潮南よりする時ハ風勢弱るなり。
  • 南風まぜ、辰巳風イナサ、東風コチ、西ハ西風、北よりハ北風、東北ならひの大ナルモ〔ノ〕ヲベットウ。
  • 神主新太郎、新三郎、これハ婦夫長命なる人ニ給金せり。

 

  • 抑此島周廻一里強、大洋のただ中におし出て鳥もかよはぬ絶島なり。大磐石辺を根として大山を起す。これハ燈明山といふ。此他小き山六七峰もあるべし。一足を置べき平地なけれバ、谷のあわひより磯辺かけて人家所せうたてならべ、凡百軒もあるべし、常(つねに)風の憂あれバ皆瓦屋根にして、ひとつも草をもてせるなし。又左衛門ハ奥のかたに家居ありて、予が到りしにおどろきたる体なり。案内せるもの云、これハ
  • 窓の外に雪蹻〔せつきょう=雪駄〕の音す。いと珍らかなれバ戸引あけて見れバ、嶌人ども海のさまを見に出しなり。この雪蹻を用るハかきの殻多かる地なれバなりとぞ。
  • 燈明山に登る。この山ハ島中第一の高山にして、中腹皆松なり。この松の根ハ皆横ニわしりて地に入らず。其長サ凡十間より十四五間にも及ぶべし。これハ地中皆巖なれバなるべし。
  • 〇神島家数百二十ケン、〇船七八十。〇東西イナサ、コチ、亀島にてハあしく船不出。

神島の島影。北東の海上あるいは伊良湖岬から眺めた姿だろう。灯明(とうめ)山の頂きにその山名の由来になった灯明台(後述)が描かれている。

『参海雑志』より
『参海雑志』より

八代神社の社殿。現在は周囲を玉垣で囲まれて中が見えない上、正面に拝殿が新設されているが、本殿は変らず神明造であり、雰囲気は共通している。「八代明神」と書かれていることから、八代の名が明治40(1907)年の合祀以前から存在していたことが分かる。

『参海雑志』より
『参海雑志』より

灯明山の頂上に建っていた灯明台。伊良湖水道を照らす灯台として使われたものである。江戸時代初期、幕府が河村瑞軒に命じて設計させ、その管理には浦和奉行が当った。灯油には魚油を用い、3月~8月は4合5勺5才、9月~2月は5合8勺5才を一晩で費やした。『郷土志摩』No.44 (1973年9月) 内「神島の歴史・現状と七不思議」に「高さ九尺、基礎方七尺、上部四尺、光達先は四・五里であった」「四方を薦を以て囲み、その外に竹簀をめぐらした」とあるが、その実際の様子が詳細に描かれている。

灯明台は明治6(1873)年に廃止されたが、明治43(1910)年には現在の神島灯台が建設され、その役割を引き継いだ。

『参海雑志』より
『参海雑志』より