名古屋市史 地理編

『名古屋市史』は、名古屋市のホームページによれば明治40(1907)年8月に市史編纂室が設けられて作成が開始され、大正4(1915)年から5年にかけて、社寺編、政治編(三巻)、学芸編、風俗編、産業編、地理編、地図、索引の10巻を刊行したものである。本稿では、その内の『地理編』から「第六章:川池及湾」と「第七章:橋梁」を引用した。

 

 

名古屋市は、市史発行の数年前にあたる大正10(1921)年に周辺の町村(千種町や中村など)を合併して大規模に市域を拡大しているが、新市域の情報をまとめるには時間が足らなかったのか、『地理編』に掲載されている地点は専ら旧市域内のものに留まっている。しかし、であるからこそ現在に全く痕跡を残さず、情報が希少なものについての記述が多く、特に橋梁について、および精進川上流部の流川や玄海川、烏川についての情報量は、他の追随を許さない。

 

なお、『名古屋市史 地理編』は国立国会図書館デジタルコレクションでも公開されている。

国立国会図書館デジタルコレクション『名古屋市史 地理編』

 


・註釈は〈〉で示した。

・漢数字は適宜アラビア数字に置き換えた。

・小文字で注釈されているものは、括弧で示した。

・本来は読点のみが用いられているが、適宜句点に置き換えている。

・旧字は置き換えたものと、置き換えなかったものがある。

・□は漢字が入力できなかったか、判読できなかったものである。


第六章 川池及湾

〇山崎川

山崎川は愛知郡東山村大字田代字猫ヶ洞の池水に発源し、上流を石川と称し、伊勝村を経、川名村に至り、川名川と称し、山崎村に至りて山崎川と称す。市の東南端に於て、熱田東町字濱新開と山崎村境とを境し、道徳新田と化物新田の間、及び新開地を経て熱田湾に注ぐ。延長凡2里18町25間あり。下流に至りて、僅かに小舟を通ずるに過ぎず、概ね灌漑の便に供せり。(尾張志、愛知郡誌)

 

 

〇流川

流川は東区葵町の俗称は蓮池(もと御下屋敷の北御庭の池、今も稍々其形を存す)に発し、建中寺西堀の水、及び相生町裏の溝水等の南流せるものと合し、(新栄町5丁目にて、)南下して、前津小林町の東北にて新川(精進川の下流)に注ぐ。金鱗九十九之塵に「百日の日でりにも、この川水のかはく事なし、誠に名水なりとぞ」と見えたり。現今皆暗渠に改めたり。

 

 

〇新川

新川は一名を長根川とも云ふ。其水源二流あり、一流は猫ヶ洞池より出で、末森の中央部を経、東山村字丸山の東邊を迂回して、千種町丸田堀の前、元古井(今池南邊)五段田を経、猶諸所の池水を合せて、市の中区奥田町に入り、一流は千種町蝮ヶ池より発し、北裏物部神社の南を経、市の東区車道町5丁目の下にて南に折れ、車道町を南下して、奥田町に入りて、本流に合し、白山の下を通りて、東瓦町にて流川を合せ、松本町の東(俗称はドンド)より西方に直流して、新堀川に注ぐ。但し松本町よりの水路は、明治42年の掘鑿に係り。之れより以南は其當時及び明治45年以来、御器所の耕地整理に依りて、漸次廃川となれるものなるが、猶全く廃絶せず、松本町より公園線、電車線路の西を通り、御器所村字新川にて、御器所龍ヶ池より出づる支流と、呼続町字高田にて、御器所新池(龍興寺池)の支流とを合せ、熱田東町字三本松にて、新堀川(舊精進川)に注ぐ。本川は猫ヶ洞池の一用水にして、専ら灌漑に供せり。但し今より15,6年前までは、呼続町二野橋まで、50石許の船舶常に出入せりと云ふ。(尾張志、愛知郡誌)

 

 

〇精進川

精進川は又生死川に作る。新川の下流の称にして、熱田東町字三本松より、伝馬町姥堂の東際を経て、熱田湾に注ぐ。古雅書に「精進川とも、祓川とも云、是熱田宮御祓所にて、毎年六月晦日、此所にて社人集り、川ばたに50串を立て、茅の輪を作り、祓を修する也、是名越祓なり」と見えたり。(熱田町舊記、尾張地誌資料、尾張志、愛知郡誌)

 

 

〇新堀川

新堀川は政治編第三(519頁)に述べたれば、本編には省略す。

 

 

〇六段地江

六段地江は又三郷悪水江という。源を西春日井郡川中村大字福徳、及び中切、成願寺の三郷の輪中の悪水より発し、矢田川を通り、南流して御深井御庭の西北隅の外に至りて、大幸川に入れり。寛政4年の開削に係る。(金城温古録)

 

 

〇大幸川(第5図及び第1図の第2号附図を参照)

大幸川は通称を大幸江と云ふ。西春日井郡六郷村大字大幸の邊、矢田川の上流より発源し、志賀、田幡村の南を経て、御深井御庭の東北隅(此御構の外に二野杁あり、三段に造れり、上は人の往来の橋□にて、雨傍に駒除あり、中には御用水溜池より分れて、御庭ぐちを伝はしむる流れを通ず、下は本川の水を通す水門なり、是れより水上は杁方役所持、川下は御普請方持なりき)に至りて、御垣内に入り、御庭曲輪の御土居裾を北より西へ曲り、西御構中程までにて西南へ向ひ、西御深井御地内を流れて、紅葉矢来前を過ぎ、御鷹部屋構の東北隅より南へ折れ、諸士屋敷裏通りを巾下新馬場(此新馬場の松林の東に井堰ありき、後両岸は崩れて、堰場広くなりきと云う)に懸り、朝日橋の下にて堀川に入る。天明四年冬、杁奉行に仰付けられて、新に堀鑿せらる、以来同奉行の支配に属せり。文化元年、御深井御庭副の邊より下流の部を、御普請奉行の支配に改むる。文政十年、西御深井地内に新御殿を造営せらるるに方りて、その川筋を少しく北へ附替へたり。(新御殿御構御多門の西、御土居の内、溜池のところに井堰あり、此邊より川の勾配甚強く、水深淵をなせり、要害の為めなりとぞ、是より以前は少しく東に在りきと云ふ)この川開鑿の要因は、明和四年七月十二日洪水あり、猪子石村の堤切れて、巾下門前までも水先登り、巾下町々の浸水甚しければ、此水害を除かん為めにありて、其後城下東北の村々には、曾て水害を見ざるに至りきと云ふ。然るに当時の軍学者伊藤直之進(天明前後勤務)は上書して、此の川の城郭を離るること僅に五間程にして、且つその川底が御堀の水高よりも低きこと二間半にも及べるは、決して萬一の要害にあらず、全く築城の秘事に反すとて、その改修を主張したれど、之を鑿り更ふるに莫大の費用を要せし為め、その儘となれりと云う。明治九年、黒川治愿改修の工事を起して、後黒川と称す。(金城温故録、伊藤直之進上書、尾張志、青窓謾筆、難波の塵)

 

 

〇御用水路(第1図第2号附図を参照)

御用水路は一に辻村用水とも云う。西春日井郡大森山の西麓に勝川の水を引きて、水源となし、勝川に平行して西へ流れ、漸次西南流して瀬古村に至り、矢田川水底の伏越杁を通りて、辻村に出で、東志賀村と杉村との間、田幡村と金城村との間を経て御深井御庭に入り、御深井御堀となり、是れより巾下水道に通じ、餘水は大幸橋の下の龍の口より堀川に注げり。此開鑿は寛文3年夏とす、(蓋しその奉行は巾下水道の奉行と同一ならん)。5年2月、大代官本多七兵衛、(一に久兵衛に作る)、用水奉行となる。水道の両岸には並松あり、偃して繁れり。飲水なれば、水面を掩ひて日光に焼けざる為めとも云ひ、又行軍の時地道の用の為めと伝ふ。堀川の堀詰へは巾下より常に塵芥を捨てて、夏はその臭気甚しかりしかば、万治3年秋、堀底へ松木などを入れ、2町餘下にて土を埋め下げ、元の如く石の水道を伏せ、堀川に満潮の時は水を上げ、干潮の時は水を落とす様になりたり。天保15年正月、矢田川伏越水筒普請不正事件商じ、御普請方見方役杁掛り、酒井加右衛門、水野佐次右衛門、横山文平は押込に処せられ、其他野村吉右衛門、深谷徳治、小出伝七、山田重五郎等も夫々罰せらる。明治7年4月22日、紅葉矢来の邊の往還を掘り割りて、濠水を堀川に注ぎしが、巾下水道の水に缼乏を来ししかば、25日之を埋めたり。(編年大略、金府紀較、瑞龍公御治世記、名府豫録、古楽園随筆、金鱗九十九之塵、蓮城亭随筆、名区小景、御用水江之事條、松濤棹筆、椋園時事録)

 

御用水にて     つかつかととみによる水の四月かな 臥央

 

蛍執りにまかりて  月出ててすうなくなりしほたる哉 楳渚

 

御用水堤蟲 雲厓 

一道清渠流入城、草涯喞々閙秋聲、微蟲亦是為官否、故向公園近處鳴、

 

 

〇堀川(第2図の14121617及び第11図を参照)

堀川は巾下外郭の西、龍の口に起り、廣井、日置、古渡を熱田の西に至りて海に入る。その長さ、市譜に凡1里半餘と見え、愛知郡誌には延長凡31町24間、幅35間乃至48間とあり、慶長15年、福島左衛門大夫正則、御普請惣奉行となり、美濃衆御手伝にて之を掘る、(金府紀較補遺、洲崎神社記録)。古義に「堀川、慶長15戌6月朔日より名古屋普請、美濃、伊勢両国之先方衆参著、今日より城下舟入を掘、白鳥邊に別に堀川を構ふ。今に大夫堀と言、福島左衛門大夫下知」と見えたり。然るに蓬左閃遷府記稿に、「慶長16年2月2日、大名20人千石に1人づつ役を御宛、堀川船入の儀被仰付、(萬松寺記録全文)」と見え、張州舊話略、慶長16年6月朔日の條に、「今日より名古屋為普請、美濃、伊勢両国先方衆参著、大名千石に夫壹人宛被出、城下舟入ヲ掘、白鳥ノ邊別ニ堀川ヲ構フ、爾今大夫堀ト云、福島左衛門大夫被申付ト云、普請之衆ト平岩主計頭ト間ニ不和之事有ト云」と見え、敬公実録、亦16年に作れり。蓋し是等の16年説は恐らく15年の誤ならん。巾下御門の外、朝日橋の下は堀留にして、もとは川底甚た深く、海潮ここまでさし来りし故、鹽留とも呼び、此あたりまで鰹魚及び鰯等のぼり来りしと云ふ。(小治田之眞清水) 堀留の称は御堀の水留の要略にして、新馬場以南堀川に至るまでの所を曰ひ、堀川の留まりは堀詰と云う可きなり(金城温古録)と云う。片端筋の西(今西区南外堀町西端の河岸)を惣河戸と称し、諸国の商船は常に茲まで入来れり(名所図会)。大夫堀は白鳥材木場の西側の中程にして、西へ湾入せる大池なるが、後に材木筏の圍ひ場となれり(尾張名陽)。堀川の両岸は冬期に入れば少しづつ壊崩せしかば、町人等竹木を以て之れを防ぎしが、寛文3年5月18日、石垣に為すべき旨仰せ出されたり(古今珍談抄)。天明4年正月4日より、成願寺堤の御冥加普請始まり、此時本町橘町は堀川の浚渫を仰せ付けらる(蓮城亭随筆)。天保7年夏より、押切の久留米屋利助(一書くに車屋に作る)といへる者、古例を考へて、又冥加浚の許可を得、花車町、木挽町、呉服町、小舟町、堀詰町、八百屋町、葭町、押切町等、町々の印に纏などを作り、衣装を揃え、中には三絃交りの囃子などして賑はし、6月より始め、9月に至りて止み、8年夏又之れを初めたりと云ふ(鸚肋集、太平談、青窓紀聞、川角雑記)。嘉永2年3月20日、三たび冥加浚の觸あり、翌年10月略、出来せり(酒商田島屋八番諸用之記)。明治16年1月4日、名古屋区長吉田禄在、川幅拡張の議を上申し、荷物揚場修築の為め、市内寺院無縁石塔を以て、此用材に充てんことを、徳源寺住職關鼇嶺に諮問せしことあり(枢要雑書)。波渡場は寛延2年5月、始めて之れを築けり。渡船場は木之免渡(又一文渡と呼べり、熱田木之免町より熱田新田一番割に至る)、大瀬子渡(熱田大瀬子町と千年村字裏畑との間)あり。蔓延元年頃よりは今渡(御船手役所石橋際)及び中畝より堀詰町への渡場をも始めたり(古義、古楽園随筆、猿猴菴日記、青窓紀聞、尾張志、尾張地誌資料、愛知郡誌)。堀川端上の西よりの筋は魚を取り船を繋ぐことなど、及び日置橋と古渡橋との間も蜆を取ることを禁ぜられしが(諸御定書所々制札雑記)、嘉永3年8月、朝日橋より御船蔵まで、御留川及び殺生停止の禁を解き(酒商田島屋八番諸用之記)、慶應2年11月、従来家中の輩殺生に到りし際は、尾頭船番所へ出入共、名刺を差出したりしを免さる(見聞雑剳)。總町中より出づる堀川金は小判270両なり(川角雑記)。堀留東の方道より川端まで、町方の支配、川の内は御舟奉行、道は小路奉行の支配なりき(名古屋藩仰目付覚書)。

 

 

〇前の川(第2図の13を参照)

前の川は西区五平蔵町武島天神社の前を流れし川にして、徳に御堀端通の辻番の石橋の東垣の邊を称せりと云ふ(蓮城亭随筆)。明治維新以後之を埋めたり。

 

 

〇巾下用水

巾下用水は龍の口御堀、竝に矢来城戸際御堀より、二管の水道を附け、南は小船町、堀詰町、堀江町、鹽町、大船町、舟入町、納屋町、元水主町に至り、北は蛯屋町、江川町、樽屋町等に至れり。是れ巾下の水の悪しきが為めに、飲料に供せられしものなり。此の工事は寛文3年9月に起り、翌年に至りて成れり。總奉行は御用水小瀬新右衛門、御作事奉行は本田伊右衛門(一に總奉行御用人野崎主税、御普請奉行江坂清左衛門、同蘿木伊兵衛、小路奉行加藤新太郎、林権右衛門に作る)なりき(編年大略、萬治日記、塵點録、昔咄、徇行記、瑞龍院殿源正公御行状略、故今珍談抄、椋園叢書)。

 

 ここに澄め清き流れは月そ知るせみの小川の外を尋ねは 光友

 

 

〇江川(第1図第3号、第2図の1314121617を参照)

江川は俗に辻井筋とも、東井筋とも呼べり。西春日井郡庄内村大字稲生にて惣兵衛川に発源し、光音寺村前の悪水を合せ、上宿の北にて御用水の捨水を合せ、巾下、廣井、日置、平野、露橋、五女子等を経、堀川の西に在りて、堀川と併行し、熱田前新田にて中川に注ぐ(尾張志〇金府紀較、寛保2年の條に、「江川の水、稲生村の定井を潰し、瀬古村より山田村江大川の底に埋杁を伏、山田村掘割を附、江川江水を取、三月出来」と見えたり。或は御用水より引けるを指せるか、詳ならず。)

萬治3年春、志段見山の材を此川に流したることあり(金府紀較補遺)。元禄6年2月、小船町の裏通にて、江川より堀川への埋水道成る(市譜、町觸〇貞享元年11月15日、納屋町の新蔵と云へる者、堀川へ水落の所に水車を懸けて、その運上として、一ヶ年人足六百人宛を御蔵へ差出すことを願ひて許さると、尾張地誌資料及び見聞雑記に見えたり)。

明治5年7月、精霊流し、殺生、洗物、塵芥を捨つることの禁制の高札を立つ(椋園時事録)。又、堀川及び此川に産する魚類、鮠、鮒、鰻、鱺、河鹿などは頗る美にして、他に産するものの及ぶ所にあらずと云ふ(尾張志)。

 

 

〇笈瀬川

笈瀬川は西春日井郡庄内村大字名塚の悪水より発し、西区押切町の五丁目、六丁目の間を通り、愛知町の北部に至りて、愛知郡中村に惣兵衛川より発せる支流を合せ、八幡村と常磐村との間を通り、南下して熱田前新田東組に至り、中川となれり。おいせ川の名は文明元年秋、大神霊の文字ある白幡降りて、此川に流れしより、伊勢太神宮を勧請して、かく名くと云ひ(小治田之眞清水、金鱗九十九之塵)、又、元和の頃、伊勢神宮の大麻と木馬一騎降りしかば、藩主義直此地に神明社を勧請して、伊勢山、伊勢橋など名けられしより、かく呼べりとも云ふ(尾張志)。然るに尾張志に「此オイセといふ文字を、近世老瀬とも、負瀬とも書るものあれど、是はもと伊勢川という名は、御という尊称をそへたるなれば、御伊勢とかくべき也。このあたりは往古に伊勢大神宮の神領にて、一楊の御厨といへる。此處を伊勢方といひける事あり。其神領地にある川ゆゑ、伊勢川といへる也。伊勢山をオイセ山といふ同例なり」と見えたり。又金鱗九十九之塵に、「古へは泥水にして、田畑共耕作心の儘ならず、さながら下田にして捨りぬ。寛永年中、掘割悪水を落すゆへ、新規堀とも云とかや」と見えたり。

 

 

〇中川

中川は熱田新田東組より南下せる笈瀬川の下流にして、熱田前新田にて江川を合せ、熱田の築地を経て、熱田湾に注ぐ。その長さ笈瀬川を合せて、凡2里23町、幅4尺3尺、乃至39間3尺あり。(尾張志、愛知郡誌、酒商島田屋諸廻文留帳)

 

 

〇荒子川(第14図を参照)

荒子川は愛知郡中村大字稲葉地の悪水に発源して、上流を柳瀬川と称し、漸次悪水を集めて、荒子村に入りて、荒子川と称し、熱田新田西組を経、熱田前新田に至りて、熱田湾に注ぐ。其延長凡2里10町15間3尺、幅1間乃至83間あり。専ら悪水疎通の用に供す。(尾張国地名考、尾張志、愛知郡誌)

 

 

〇小袖川

小袖川は又袖川、袂川に作り、一名を錦川とも称ふ。東区小市場町六丁目の東側なる小袖塚の邊より出で、久屋町誓願寺の裏より、本重町筋を通り、袖ヶ池に入れる溝流なりき。往古はいと大きなる川なりしが如く伝ふ。名称の由来は風俗編伝説(46頁)の條に詳なり。(蓬州舊勝録、名府豫録、金鱗九十九之塵、蓮城亭随筆、金城温古録、尾張名陽図会)

 

 

〇紅葉川

紅葉川はもと上田町を流れし川なりしが、其地詳かならず。一説に久屋町一丁目の中なりとも云ふ。又何故に紅葉川と呼びしかも詳ならず。(尾張名陽、同図会)

 

 

〇紫川

紫川は中区鉄砲町三丁目伝光院の裏通より出で、西流して三丁目中程の石橋の下を過ぎ、八百屋町三丁目の中程を経、南桑名町三丁目と南伏見町二丁目との間に至りて、廣小路より入江町を過ぎて来れる溝水を合せ、西南流して、南伏見町三丁目の東南角にて西に向ひ、直流して堀川に注ぐ。伝光院の境内に紫式部の塔と云ひ伝へたる五輪石塔あり。紫式部に召使はれし女が築きたるものと伝ふ。此寺の邊より清水湧出でしよし言伝え、之れを紫の清水、又は朝日の清水と称へ、此川の北の岸の邊りを云ひきと云ふ。往古藤の大樹ありしとも伝へたり。紫式部は初めは藤式部といひしが、後拾遺集の大納言實季の「水底にむらさき深く見ゆるかな岸の岩根にかかる藤浪」といへる和歌に因みて、紫式部と改めたりとぞ。一説に此川は名古屋村の先きにあれば、村先川なりとも云へり。遷府当時までは大なる川なりしが、成瀬正成の馬を冷ししより、その邊りを成瀬が淵と呼べりと云いひ、又成瀬が淵は鳴瀬が淵なりとも云へり。子供のてまり歌に、「紫川へ身をなげて、身は身としづむ、小袖は小袖としづむ、云々」と謡ひならはせりと伝へたり。(尾張名陽、尾張名陽図会、尾張志、尾張名所図会)

 

 

〇七志水川

七志水川は一流は大須観音の裏より発し、一流は日置神社の裏に発し、両流は中区上日置町の東にて合し、同町白山神社の前を流れて、堀川に注ぐ。むかし七ヶ所の清水より湧き出でしにより、かく名けしとぞ。(尾張名陽図会)

 

 

〇大江川

大江川は中区古渡町三丁目川口屋の後方にありき。その由来詳ならずと云ふ。愛知観音此邊に在りしが、里童等其像を此川に浮べて、船となし乗遊びしとぞ。(尾張名陽図会)

 

 

〇涙川

涙川は旗屋町全隆寺の北裏の藪の中の谷より出でて、八劔宮の北門(清雪門)の前を通り、精進川に注ぎしものと伝へたり。厚見草に「八劔宮清雪門ノ前水溜有リ是ヲ云フ」と見え、愛知郡誌に「近年埋モレテ今ハ絶タリ」と見えたり。(熱田宮略記、張州府志、袂草、蓮城亭随筆、愛知郡誌)

 涙川其水上を尋ぬれは粟手の森のしつくなりけり

 

 

〇烏が池(烏の清水)

烏が池は東区飯田町養念寺の後園に在り。今林泉廣からざれと、古雅にして愛す可し。往古は大池にして、舎人町貞祖院の裏、平岩氏の庭前にある烏の清水は、その水源なりしが、いつしか隔絶せりと云ふ。水色の黒きが故に名けられしとぞ。袂草に「先年より烏か池と申伝たりと当住申たり」と見えたり。池中に多く紅蓮を植ゑ、池邊の高處に飯縄明神社(一に稲荷社に作る)あり。(尾張名陽図会、尾張名所図会、金鱗九十九之塵、阿部直輔備忘志)

 

 

〇布ヶ池

布ヶ池は東区布ヶ池町石神小祠の裏に在りて、その跡田となれり(第1図第1号に御添地池と載せたるもの異なり)。もと御下屋敷の内の大池ここまて拡がりてありしが、漸く埋められたりき。その名はむかしは布をさらししに依ると云ひ、又相應院の火葬の式を此地邊にて行ひし時、その道通に布を敷きたりしに依るとも云ふ。(袂草、蓮城亭随筆、尾張志、金鱗九十九之塵)

 

 

〇大池

大池は本名を麹ヶ池と云ふ(一に麹塵池に作る)。中区大池町に在り、その大さ縦90間、横68間、面積6100坪、周囲4町58間3尺あり、水田約15町3段8畝26歩の灌漑の用水なり。此の池の起源は庄屋木村忠兵衛の諸像寛保元年4月の記録に依るに、同氏の先祖より当時此地を寄附して、村方の溜池となししと云へど、紅葉集に寛文8年8月15日、浪人相撲弥五右衛門と云へる者が、「前津ノ大池堤エ駆アカリ自殺仕候」と見え、又元文の城下図(第1図第1号に雨池とある是れなり)などに、既に大池を載せたれば、その誤文たるや疑う可からず。天保6年正月、池底の亀裂せる程に、その水乾揚りたりき。徳川時代には、春は菜摘、凧揚にて賑ひ、又毎年正五九月、二十六夜まちに、府下の男女此堤に群集して、月を拝めりと云ふ。(名陽見聞絵図、金鱗九十九之塵、尾張志、尾張名所図会、愛知郡誌、名古屋地誌資料)

 

 

〇袖ヶ池

袖ヶ池は又袖ヶ淵とも称せり。久屋町筋と鍛治屋町筋との間なる山田町に在りき、往古は大きなる池にて、小袖川の流れ入る池なれば、かく名けたりとぞ。その南の方には用水溜池の場となりきと云ふ。(蓮州舊勝録、名府豫録、尾張名陽図会、金鱗九十九之塵)

 

 

〇古澤池

古澤池は又びる澤の池に作る、中区南小川町妙蓮寺の東にありき。往古は大池にて、水鳥など数多棲みたりと云ふ。明和、安永の頃までは、小池となりて残りしが、その後畠となりて廃せりとぞ。(袂草、蓮城亭随筆、尾張名陽図会、金鱗九十九之塵)

 

 

〇鶴舞池

鶴舞池は又鶴萬池と呼び、中区池田町に在りき。宝永頃までは大池なりしが、後潰れて畑となり、宝暦6,7年の頃、町家となりきと云ふ。(尾張名陽図会)

 

 

〇菖蒲池

菖蒲池は熱田旗屋町の二の鳥居の南西に在りき。蒲の冠者範頼の誕生地と伝ふ(金鱗九十九之塵)。往昔5月3日、熱田神宮の祭礼の節、此菖蒲2本に蓬を添へて、人々之を西門の階上に捧げ、又5日の蒲菖伐には、人々此菖蒲を刈取りしが、後、菖蒲は絶えて、池のみ残れりと云ふ。今、池の形なしと雖、北方は加藤秀一邸の裏に達せりきと云ふ。(尾張地誌資料所収取旗屋古跡)

 

 

〇熱田湾

熱田湾は今名古屋湾と云ふ。もとは熱田潟、熱田の浦、熱田の海、また尾張の海とも呼べり。海面は当市及び愛知、知多、海部の三郡にて包囲せられ、西南は伊勢湾に対す。享禄頃までは熱田市場町上知我麻神社の邊まで湾入せしが、その後次第に築地して、今の如くなれり。

須賀、大瀬古、東脇の三浦(此等の地より、近世に至るまで、板魚と称して鯛を祝師家田島氏へ貢せしが、後米を以てこれに代へ、又大網をおろす毎に、チネ(御贅の轉語なりと云ふ)と称して、小鱸250尾を同家に貢し、又波瀬の内よりは、うけ引の網一條ごとに、鱵6尾を貢せしが、後あらぬ鹽魚を集めて贈れりとぞ。)、保田(湊より24,5町西南西にあり、大船に乗換へし所なり。)、古江(湊より20町餘西南西の所、干潮の時は、大船を置きし所なり。)、土居の浜(築出町の東にあり。呼続の鹽屋といひし所と云ふ。もと鹽を焼きし跡と伝へ、徳川時代に、毎年12月30日、熱田神宮の御祭体の御鹽、1升5合を栗田福太夫方へ贈る故實ありき。)、網引浦(呼続の邊)等あり。海上に澪漂18本(其内14本は熱田前、4本は鍋田川口)を立てたり。熱田より桑名に渡る海上約七里あり、之れを七里の渡、又は間遠の渡と呼びて、古来有名なり。(若し此船中にて死人ある時は、往復とも常に桑名に送りて、熱田へは請取らざる例なりき。)従つて詩歌多し、左に掲ぐるものはその一斑なり。(張州府志、古雅書、熱田之記、熱田阡陌舊記、熱田町舊記、尾張国地名考、徇行記、尾張地誌資料、絵本江崎の春、名古屋名物四編之綴足、尾張志、尾張名所図会、金鱗九十九之塵、愛知郡誌、鸚鵡籠中記、金府紀較、奥村本正事記、軍用鶏肋、尾張国御法度之古記、峴山日記、佐野屋諸事當座留、東京御事留書、御觸留、熱田魚問屋文書及公用留、民政御用留)

 

(長明伊勢の記)

有明の月に間遠のわたりして里にいそかぬ夜半の船人 よみ人志らす

 

(春の曙記)

伊勢、尾張の境の海つら、ほのぼの霞みて、月のさやしけなるに

これやこの尾張の海に眞帆かけていせまておくれ船の追風 鳥丸光廣

 

(□父紀行)

 8月15日(萬治2年亥年也)桑名より船にのる、夕陽猶のこれり、風しつかに吹て、2里はかりも来ぬるに、遠き山の上に月あかくさし出たり、爰なん伊勢、尾張の境なりといへは

わすれめやいつくはあれといせ尾張月と今宵の秋の海つら 元政上人

 

(□窓集)

 夏の比いとま申給はりて、しほゆあみせんとて、知多といへる浦にまかりける、夜半の頃、熱田潟より船出して

漕出るかたはあつたの名にも似す船路すすしき浪上の月 横井也有

 

(熱田三歌伷)

 尾張国熱田にまかりける比、人々師走の海見んとて、船さしけるに

海くれて鴨の聲ほのかに白し はせを

 

(東關記)

過熱田前初月寒、三更雨進不心安征帆□速風消息、渡是巌陵七里灘 澤庵和尚


第七章 橋梁

〇石神堂橋

石神堂橋は東区石神堂筋、車道東町の溝渠に架す、長2間1寸、幅1間4尺あり、明治29年改築し、同42年修理を加ふ。(臺帳)

 

 

〇八幡橋

八幡橋は東区車道東町、もと勘定小路の西にありて、車道筋の溝渠に架す。長2間9寸、幅1間3尺9寸5分あり、明治31年改築す。(臺帳)

 

 

〇車道橋

車道橋は中区新栄町9丁目の大溝渠(車道筋也)に架す。長2間1尺1寸、幅12間3尺6寸あり、明治32年、道路開通の際新設し、43年また改築す。(臺帳)

 

 

〇玄海橋

玄海橋は中区東田町と奥田町との間、玄海川(車町筋の大溝)に架せる石橋(もと板橋のよしは名陽寛文記に見ゆ)にして、長2間3分(もと3間)、幅2間2分1厘(もと9尺)あり、此橋白山の円教寺開山玄海の始めて架する所と云へど、玄海は遷府以前の人なれば、此説覚束なし。下水道改良工事の為め大正3年撤廃す。(金鱗九十九之塵、臺帳)

 

 

〇白山橋

白山橋は中区老松町の溝渠(玄海川)に架す。長2間2尺3寸、幅7間3尺6寸あり、明治42年、道路改修の際新設す。(臺帳)

 

 

〇葵橋

葵橋は葵町と布ヶ池町との間の溝渠(布ヶ池町6番地先)に架し、長2間9寸、幅2間2尺9寸5分ありき、此邊もと徳川家の御下屋敷内にして、後練武場となり、明治6年の頃通行を許され、明治29年、市有地となりし際、ここに架橋す。明治34年改築し、42年修理を加へしが、後に下水工事の為めに廃橋となせり。(名府全図、臺帳)

 

 

〇流川新橋

流川新橋は中区新栄町五丁目にありて、流川に架し、長さ1間4尺6寸、幅12間5尺8寸あり。明治32年、道路開通の際新設し、下水道改良工事の為め、大正2年撤去す。(臺帳)

 

〇流川橋

流川橋は一名をズブタ橋と云ふ。東田町一丁目流川に架し、長さ1間4尺8寸(もと2間)、幅2間2尺2寸(もと9尺)の石橋なりしが、下水道改良工事の為め、大正2年撤廃す。昔此地に権左衛門と云ふもの居住す。此者常に髪を結はず、年中すぶた天窓(あたま)なる故に、世人之を異名して、ずぶた権左衛門と呼ぶ。而して此邊の橋なればとて、橋の名にもズブタ橋と称すと云ふ。大正中撤廃す。(臺帳、金鱗九十九之塵、尾張名陽図会)

 

 

〇元瓦橋

元瓦橋は玄海川と流川と合して流るる溝渠の、中区東陽町筋を横ぎれる處に架せり。長2間7寸、幅3間3尺9寸あり。明治29年、道路開通の際新に架設し、大正年中に至り撤廃す。(臺帳)

 

 

〇北烏川橋

北烏川橋は東区七小町と東新道町との間、七小町29番地先にありて、烏川の溝渠に架せり。長2間、幅2間あり。明治33年、改築の際の命名なり。下水道改良工事の為め、大正年中撤廃す。

 

 

〇烏川橋

烏川橋は東新道町七小町の間、東新道町一丁目4番地先にありて、烏川に架せり。長1間4尺1寸、幅2間9寸5分の板橋なり。明治33年9月架設し、大正中撤廃す。

 

 

〇團平橋

團平橋は七小町と東新道町との間、東新道町二丁目1番地先、高岳院横筋にありて、烏川の溝渠に架せり。長1間5尺4寸、幅2間2尺8寸あり。明治33年、改築の際の命名なり。大正中撤廃す。

 

 

〇喰違橋

喰違橋は東新道町二丁目9番地先、烏川の溝渠に架せり。長2間1尺、幅1間5尺あり。明治29年、改築の際の命名なり。42年にまた改築す。大正中撤廃す。(臺帳)

 

 

〇南烏川橋

南烏川橋は東新道町にちょうめ7番地先にありて、烏川の溝渠に架せり。長1間5尺7寸、幅2間7寸あり。明治29年、改築の際に命名し、42年にまた改築す。大正中撤廃す。(臺帳)

 

 

〇新栄橋

新栄橋は烏川の中区新栄町三丁目を横ぎれる處に架し、長1間3尺、幅13間1尺8寸の石橋なり。明治32年、新栄町道路改修の際新設し、下水道改良工事の為め大正2年撤廃す。(臺帳)

 

 

〇東瓦橋

東瓦橋は宮出町と東瓦町との間の溝渠に架し、長1間3尺3寸、幅2間3尺あり。下水道改良工事の為め、大正3年撤去す。(臺帳)

 

 

〇宮出橋

宮出橋は中区宮出町と西瓦町との間、宮出橋(39番地先)溝渠に架し、長1間4尺2寸、幅1間5尺あり、下水道改良工事の為め、大正3年撤去す。(臺帳)

 

 

〇喰違橋

喰違橋は南瓦町と東瓦町との間、寺町筋溝渠に架し、長1間5尺4寸、幅1間4尺5寸あり。下水道改良工事の為め、大正2年撤去す。(臺帳)

 

 

〇野田橋

野田橋は中区東陽町通、寺町筋の溝渠に架し、長1間5尺5寸、幅3間3尺6寸あり。明治40年改築す。下水道改良工事の為め、大正2年撤廃す。(臺帳)

 

 

〇筋違橋

筋違橋は東区駿河町通、光蓮寺横の溝渠に架せし石橋なり。今は其名なし。徳川時代に此西に大木戸ありて、東はすべて木戸外と呼べり。

 

 

〇新橋

新橋は二つありて、中区東新町と南新町との間の溝渠(南新町3番地先)に架せり。南新町通りのは長1間2尺7寸、幅2間、東新町通りのは2間1尺1寸、幅1間5尺1寸あり。共に下水道改良工事の為め、大正3年に撤廃す。(臺帳)

 

 

〇権現橋

権現橋は西区押切町の悪水路、笈瀬川に架す。長5間、幅3間1尺6寸あり。もと板橋なりしを、明治28年に栱形石橋に改築す。(臺帳)

 

 

〇三枚橋

三枚橋は西区南押切町字上十二島1番地先(平野町通)にあり、笈瀬川に架す。長3間3尺、幅1間3尺。明治37年頃架橋し、三枚板を以て作る。

 

 

〇總兵衛橋 〈惣兵衛橋の誤り〉

總兵衛橋は八坂町国道にありて、用水路總兵衛川に架す。長4間4尺8寸、幅3間にして、木杭石橋なり。明治25年に改架す。(臺帳)

 

 

〇笈瀬橋

笈瀬橋は西区菊井町薮下町通りにあり、長4間1尺8寸、幅2間3尺あり、大正2年10月、架橋修繕せり。

 

 

〇浄心橋

浄心橋は浄心観音の前筋、江川に架す。尾張志に出でたり。

 

 

〇新屋敷橋

新屋敷橋は江川端町と新屋敷町との間、江川に架す。長3間、幅1間1尺あり。明治27年修築す。(臺帳)

 

 

〇泥橋

泥橋は尾張志に泥町橋と見えたり。西区泥町と江川端町との間、江川に架せる木橋にして、長3間4尺1寸、幅1間5尺あり。明治34年改築す。

 

 

〇磯邑橋

磯邑橋は西区吹出町の江川に架す。もと磯村清五郎と云へる士ここに住し、始めて江川に此橋を架す(金鱗九十九之塵)。今橋名無し。

 

 

〇前ノ川橋

前ノ川橋はもと三石橋、又は三國橋と称す。前ノ川町筋、江川に架す。往古は此地より近江、美濃、加賀の山々見えたるより、三國橋と称せしより金鱗九十九之塵に見えたれど、名より思附きたる附会なる可し。尾張志には三石橋の名出づ。長3間5尺、幅1間3尺6寸あり。明治31年改築し、同43年、橋面厚三寸通り安田煉(砂利入)を施す。(臺帳)

 

 

〇俵橋

俵橋は尾張志には袋町橋とあり、三國橋の南にあれば、二國橋とも云ふ。西区俵町筋江川に架す。長4間、幅2間あり。明治31年5月改架す。(名府豫録、金城温古録、臺帳)

 

 

〇紙漉橋

紙漉橋は西区紙漉町(紅葉矢来筋)と江川町との間、江川に架せる橋なり。尾張志には紙漉町橋と見えたり。長4間、幅2間あり。明治34年に改架す。(臺帳)

 

 

〇北野橋

北野橋は巾下虎薬師裏筋(今北野町と云)、江川に架せる木鉄混用橋なり。尾張志に源左衛門橋〈原文ママ〉と見えたり。当町に米屋源右衛門と云へる商家ありて、始めて此橋を架す。よって源右衛門橋と名く。此家天保の頃絶えたりと云ふ。長3間5尺4寸、幅1間5尺4寸あり、明治34年、同45年改架す。(金鱗九十九之塵、臺帳)

 

 

〇北江町

北江町は西区北野町と江川端町との間、江川端通の溝渠に架せり。長1間2尺2寸、幅2間4寸5分あり。(臺帳)

 

 

〇江川町橋

江川橋は巾下街道即ち今の國道(第17号)に当り、江川に架せる橋なり。長3間1尺2寸、幅1間9寸あり、今鉄桁土橋にして、明治34年8月改架す。昔は江川町橋と称せり。此橋の東、江川町三丁目の町に江川小橋(長2間5尺、幅3間、44年+8月改架す)ありて、此の

 

 

〇浅間町橋

浅間町橋は尾張志に此名見えたれど、今は名なし。上浅間町と外田町との間江川に架す。

 

 

〇浅間橋

浅間橋は尾張志には飴屋町橋とありて、西区下浅間町と外田町との間、江川に架せる木橋なり。長3間2尺3寸、幅2間、明治39年に改架す、(臺帳)

 

 

〇大伝馬町橋

大伝馬町橋は尾張志に見えたり。今其名なし。古へより石橋にして、北驛町筋江川に架す。

 

 

〇奉公人町橋

奉公人町橋の名、尾張志に見えたれど、東側は六句町々屋の裏なれば、橋ある可からず。又天保年間の市街図にも橋見えず。猶考ふ可し。

 

 

〇六句町中の切橋

六句町中の切橋は六句町と外田町との間、江川に架す。此名尾張志に見えたるのみにて、今は名無し。

 

 

〇薮下橋

薮下橋は薮下町と外田町との間、江川に架せる木鉄混用橋なり。長4間7寸、幅2間3寸5分。明治36年改造し、同45年、今の構造に改む。(臺帳)

 

 

〇小舟橋

小舟橋は西区小舟町と井桁町との間の溝渠(小舟町19,20番地先)に架し、長2間2尺7寸5分、幅1間5尺あり。明治36年改築し、42年修理を施し、今廃す。(臺帳)

 

 

〇井桁町橋

井桁町橋は尾張志に此名見えたれど、今名なし。井桁町と明道町との間、江川に架す。

 

 

〇明道橋

明道橋は西区明道町江川に架せる木鉄混用橋にして、長3間、幅15間あり、大正2年始めて架設す(臺帳)。尾張志に上畠裏筋石橋と見えたるは、此附近の橋なる可し。

 

 

〇上畠橋

上畠橋は尾張志に市買橋(石ヶ谷橋とも云)と見えたるものと同物ならん。旧藩時代には橋詰橋と云へり。瑞庿御治世記に間宮大隅守の明下屋敷(納屋裏、江川の西)を松平義昌(奥州梁川候)に進せられ、別墅を作らしむとあるによれば、或は此時に架設せしものか。市買は江戸徳川邸の所在なれば、其名を橋に取りたるものならん。今明道町と上畠町との間、江川に架せる木橋にして、長4間1尺2寸、幅2間1尺7寸5分あり。明治33年5月改架す。(臺帳)

 

 

〇小鳥橋

小鳥橋は古へ田面橋と云ふ。西区小鳥町と志摩町との間、江川に架す。長4間2寸、幅1間3尺4寸あり。泥江橋新設以前には、清正公(中村の妙行事)参詣道として交通頻繁なりしも、其後は全く衰へたり。(臺帳)

 

 

〇泥江橋

泥江橋は伝馬町筋、江川に架し、鉄桁木造、長3間2尺4寸、幅6間1尺4寸なり。明治19年、泥江町筋道路改修の際始めて架設す。(臺帳)

 

 

〇禰宜橋

禰宜橋は柳橋の下、内屋敷町と南禰宜町との間、江川に架す。尾張志に禰宜町柳街道石橋と見えたり。

 

 

〇内屋敷橋

内屋敷橋は蓮華寺の北裏筋、中区内屋敷町の下、蓮華杁筋と舊水車町との間に架す。尾張志に蓮華寺右石橋と見えたり。

 

 

〇山岸橋

山岸橋は中区水主町と愛知町大字日置(愛知郡)との間、江川に架す、長3間5尺2寸、幅3間1尺1寸(斜3間3尺1寸)の石鉄混用なり。初め(明治何年か未詳也)山岸清太郎の寄附に成れるにより、山岸橋と称す。明治40年3月改築す。(臺帳)

 

 

〇大矢橋

大矢橋は熱田新田東組字六七割にありて、江川(6,7番地先)に架す。長3間1尺7寸、幅2間あり。明治38年2月架設す。

 

 

〇八番橋

八番橋は熱田新田東組字八九ノ割(221番地先)の溝渠に架す。長1間4尺5寸、幅一間あり。(臺帳)

 

 

〇天王橋

天王橋は熱田前新田東組字乙一ノ割の溝渠(前ヶ須街道)に架す。長1間1尺、幅9尺9寸あり。(臺帳)

 

 

〇大橋

大橋は同處の溝渠(216番地の前)に架す。長2間1尺、幅1間3尺8寸あり。明治42年11月改築す。(臺帳)

 

 

〇鰻江橋

鰻江橋は同處の溝渠(347番地の南角)に架す、長1間2尺、幅5尺2寸あり。(臺帳)

 

 

〇三俣橋

三俣橋は西区深井町と西春日井郡金城村との間、黒川に架す。長4間5寸、幅1間3尺(斜1間3尺5寸)あり。明治30年改架し、同43年修繕の上、橋面に安田土、砂利、石灰の混凝土(厚さ平均3寸)を施す。経費は郡市各等分に負担す。(臺帳)

 

 

〇中土戸橋

中土戸橋は西区深井町と練兵場入口との間、黒川に架す。長9間、幅2間3尺あり。明治38年頃改築す。幅員狭隘の為め、後に北側に於て1間拡築す。(臺帳)

 

 

〇筋違橋

筋違橋は西区樋ノ口町黒川(堀川上流)に架せる木橋なり。長10間、幅1間5尺9寸。大幸川開鑿の際の架設なり。明治39年9月架替。(尾張志、青窓漫筆、臺帳)

 

 

〇御鷹野橋

御鷹野橋は筋違橋の下、紅葉矢来木戸通りに西に在りき、一名を紙漉橋と称す。大幸川開通の際架橋す。撤去の年月詳ならず。(青窓漫筆)

 

 

〇横井橋

横井橋はもと新馬場橋と名く。尾張志には大幸橋北の橋とあり、大幸川開通の際架設す。後に廃れたるにうあ、横井氏之を再建してより此名あり。(青窓漫筆)

 

 

〇大幸橋

大幸橋は西区江川町一丁目の東埋御門外に在りて、大幸川に架す(尾張志)。長10間2尺3寸、幅3間2尺9寸あり。天明4年に始めて架設す。明治初年一時廃橋とせしも、25年に至り再架す。もと擬宝珠に「天明辰四」の字ありき。(蓮城亭随筆、青窓漫筆、臺帳)

 

 

〇潮逆橋

潮逆橋は西区鹽町と小舟町との間、溝渠(鹽町二丁目21番地先)に架せる石橋にして、長1間4尺5寸、幅1間5尺9寸ありき。明治25年改築の際、木造を石造に改めたり。今撤廃す。(臺帳)

 

 

〇景雲橋

景雲橋は南外堀町筋堀川に架し、離宮、停車場間の新設道路に当る。木鉄混用橋にして、長13間5尺、幅8間あり、大正2年の新設なり。景雲の語は孝経の「王者徳至山稜則景雲出」、及び晋書の「景雲太平之應」に取りたるなりと。

 

 

〇朝日橋

朝日橋は一名を辰ノ口橋と云ひ、俗にドンドン橋と呼ぶ。西区樋ノ口町と鹽町との間、大幸川の水、堀川へ落つる處にあり。長11間5尺8寸、幅2間。天明4年、大幸川を開鑿し、翌年架橋す(蓮城亭随筆)。明治24年、震災の後に改築し、大正2年に修理を加ふ(臺帳)。藩主齊荘、岐阜に赴くの途、この邊を過ぎて、和歌を詠ず(青窓紀聞)。

 ほのぼのと明る朝日のかけさして橋の名しるく見え渡るかも 齊荘

 

 

〇小鹽橋

小鹽橋は長畝町と鹽町との間、堀川に架せる木鉄混用橋なり。長16間5尺8寸、幅2間3尺あり。明治15年頃の創設にして、其橋(伝馬橋か、五條橋か未詳)の古擬宝珠を用ひ、「慶長七年壬刁六月吉日」の雙鉤字銘あり。架橋は太田秀規、早川四郎兵衛、伊藤太一郎等の発起なり。小鹽の名は小舟町、鹽町の住人発起せしより各頭字を取りて組合せたるなり。大正2年、鉄桁鉄柱に改造す。(臺帳、市役所々蔵擬宝珠)

 

 

〇五條橋

五條橋は京町通の西、堀川に架す。今栱形木造長14間5尺4寸、幅4間1寸あり。昔斯波氏清須に在城のころ、五條川にわたし、其城門に当れるを以て、御城橋とも云ひ、又其架せる地上畠(うははた)と云ふ處なれば、上畠橋とも呼びしが、慶長15年遷府の際、此橋を移され、同じ名にて呼べり。擬宝珠の銘に雙鉤字にて、「五條橋、慶長七年壬刁六月吉日」とあれば、清須にて松平薩摩守忠吉の築造せしものと知らる。今のは明治34年の改築なり。(尾張志、名所図会、尾張名陽、蓬左舊記、張州府志、張州志略、尾張名陽図会、蓬左遷府記稿、尾張地誌資料、所収金城街舊記、清洲志、市譜、臺帳)

 

 

〇中橋

中橋は西萬町筋、堀川に架す。長16間2尺4寸、幅3間3尺1寸あり。明治25年に改築し、42年修造す。(尾張志、臺帳)

 

 

〇伝馬橋

伝馬橋は伝馬町筋、堀川に架す。長15間1尺8寸、幅6間3寸6分あり。慶長遷府の際の創建なり。張州志略、尾張名陽等には、慶長7年の銘ある擬宝珠あるよしを記せど、今は無し。もと3間幅の橋なりしを、明治19年改築のとき、今の幅に改めたり。(尾張志、張州府志、臺帳、名陽図会)

 

 

〇紫橋

紫橋は西区袋町泥江縣神社の西裏角、溝渠に架せし石橋にして、長1間1尺4寸、幅1間1尺5寸5分ありき。(臺帳)

 

 

〇納屋橋

納屋橋は廣小路筋堀川に架す。納屋町邊の橋なるによりて名とす(尾張志)。遷府の際始めて架設せられたるならん。正保4年に改築の事あり(蓬左舊記、尾張地誌資料所収金城街舊記)。昔咄に元禄13年の大火に延焼を免かれたるよしを記す。寛保3年また改築あり(町觸)。明治19年、廣小路改修の際橋幅を拡張す。24年、濃尾大震災の際大損害を蒙り、翌年改築す。43年、又新式の改造に着手し、13453円の経費を投じて、大正2年に之が竣功を見るに至れり。其長15間1尺8寸、幅8間1尺5寸6分の鉄石混用橋なり。

 

 

〇天王崎橋

天王崎橋は中区天王崎町と納屋町との間堀川に架す、長13間3尺5寸、幅3間の木鉄混用橋なり。大正2年の新設とす。(臺帳)

 

 

〇洲崎橋

洲崎橋は西須崎町と水主町との間、堀川に架す。長16間4尺2寸、幅3間1尺あり。此所もと船渡なりしを、明治22年11月、此に架橋し、42年、45年修築す。(臺帳)

 

 

〇日置橋

日置橋は洲崎橋の南にありて、旅籠町と松重町との間、堀川に架す。長12間6寸、幅3間1尺8寸あり。明治24年の震災後に改築す。(尾張志、臺帳)

 

 

〇山王橋

山王橋は日置橋の南にありて、下堀川町、正木町と西古渡(愛知郡八幡村大字)との間、堀川に架す、長12間2尺5寸、幅2間3尺の木鉄混用橋なり。明治34年10月の創設にして、大正3年改架す。(臺帳)

 

 

〇古渡橋

古渡橋は山王橋の南、正木町と西古渡字堀川との間、堀川に架す。長11間2尺9寸、幅2間2尺2寸あり。明日香井集(参議雅経の家集なり。雅経は承久3年薨ず)に、古渡の題にて、「むかしより其名かはらぬ古わたりさても朽せぬ橋はしら哉」とあり、されば此橋の創設は古代にある可し。但し架設の場所の今と相違せるは明かなり。古渡志に「犬見堂南の道筋を小栗海道と云。昔時京鎌倉往還の道なり。其時の橋杭とて、近き頃迄橋杭有しと云へり」、海邦名勝志に「古渡舊橋、昔の橋の跡とて近頃まで犬御堂と新宮(今の稲荷神社の事なる可し)との間に、橋の杭溝に横れり。此所を小栗街道と云よし」とあるにても知らる可し。寛保2年10月、水野伴左衛門普請奉行にて、此橋を改築す(此時東西より石を築出し、長さ4間を縮めたり)。明治11年(此時の橋長10間2尺、幅2間2尺なり)、及び24年に改築し、38年修繕を施す。経費は市及び村の負担なり。(臺帳、尾張志、愛知郡市、金鱗九十九之塵、金府紀較、阿部直輔備忘志)

古渡橋五月雨

昔者蓬莱跨海□、定應古渡愼風濤、官橋今日黄梅雨、清浅添流数尺高 村瀬藤城

日数へてふりつつきたる五月雨にくちやはてなん古渡り橋 奥田義雄

闇の森はかりかはほとときすこはさみたれの古渡橋 萩洲景惇

取逃すほたるや闇のむかう側 澤屋琶東

 

 

〇尾頭橋

尾頭橋は一に新橋とも云ふ。古渡橋の南、新尾頭町と愛知郡八幡村大字西古渡字中島との間、堀川に架せる。縣道津島街道(古の佐屋街道)の往還橋なり。長17件4尺2寸、幅3間(愛知郡市には長16間m幅3間2尺とあり)。寛文5年、これを北方に移し、佐屋の街道を改む(臺帳、名府豫録、金鱗九十九之塵、張藩名所記、蓮城亭随筆)。安政3年改築す(愛知郡誌)。樋口好古の説(徇行記)に拠れば、古へ佐屋街道は二女子村の方より、今の龜屋河戸(がうと)にかかり、熱田本街道へ出でたりと。明治の改築年月未詳。(尾張志、愛知郡誌、臺帳)

 

 

〇白鳥橋

白鳥橋は尾頭橋の遥か下にありて、中島と熱田新田東組との間、堀川に架す。長31間6寸、幅2間9寸あり。此邊もと船渡なりしが、明治40年、名古屋港開港に際し、熱田町と築港埋立地との交通不便なるを察し、附近有志のもの相謀りて、架橋を施せしが、42年に至り、築港道路改修の挙ありて、之を縣に買収せり。(尾張地誌資料、臺帳)

 

 

〇中島橋

中島橋は白鳥橋の東、中島と白鳥町との間、堀川の支流に架す。長2間3尺6寸、幅8間1尺2寸あり。明治42年、築港道路改修の際新設す。(臺帳)

 

 

〇中島橋

中島橋は熱田白鳥町にて、堀川支流(18番地先)に架す。長4間3尺、幅2間あり。明治38年1月架設す。(臺帳)

 

 

〇大瀬子橋

大瀬子橋は白鳥橋の下、大瀬子町と千年との間、堀川に架す。長54間、幅2間1尺3寸あり。もと船渡なりしを、明治42年に架橋す。(臺帳)

 

 

〇米嚼橋

米嚼(こめかみ)橋は熱田中瀬町筋、シャクシ祠の北の溝(扇川と云)に架せし石橋なり。一名を扇橋と云ふ。昔平将門が首を持来りて、此流にて洗ひたりとの伝説あり。将門は藤原秀郷の郷に顳顬(こめかみ)を射られたるより附会したるなりと。(尾張地誌資料所収武道要話雑抄録)

 

 

〇築出橋

築出(つきだし)橋は熱田築地、第一号埋立地と第二号埋立地との間に架す、長32間1尺8寸、幅4間の木鉄混用橋なり。明治38年頃新設す。(臺帳)

 

 

〇土方橋

土方橋は本町筋、廣小路の南側の溝渠に架せしが、現今は暗渠となりて之を撤去せらる。もと無名の木橋なりしを、明治10年、浄念寺の住職土方某改架して、石橋となりし、側に碑を建つ。後碑を浄念寺に移す。(牧山樓文鈔)

〈土方橋碑 碑文 省略〉

 

 

〇入江橋

入江橋は中区入江町一丁目の溝渠に架し、長2間1尺1寸、幅1間4尺ありき。明治32年の改築とす。大正中撤廃す。(臺帳)

 

 

〇桑名橋

桑名橋は中区白川町と南桑名町との間、紫川に架し、長1間2尺8寸、幅2間1尺9寸の石橋なりき。明治33年の改築にして、大正中撤廃す。(臺帳)

 

 

〇白川橋

白川橋は中区白川町の紫川に架し、長2間2尺1寸、幅1間4尺7寸5分ありき。明治32年改架し、44年、石に改築し、大正中撤廃す。(臺帳)

 

 

〇御園橋

御園橋は中区南園橋と常磐町との間、紫川に架し、長2間4尺、幅2間1尺5寸の土橋なりき。明治32年の改築にして、45年に修理を加え、大正中撤廃す。(臺帳)

 

 

〇中洲橋

中洲橋は中区中ノ町と東洲崎町との間、紫川に架し、長2間1尺6寸、幅2間3尺1寸ありき。明治31年に改築し、大正中撤廃す。(臺帳)

 

 

〇山之神橋

山之神橋は中区上日置町と西脇町との間の溝渠(七志水川)に架し、長2間1尺、幅1間5尺1寸ありき。もとは小車の通ふほどのものなりしを、明治32年に改築す。下水道改良工事の為め、大正3年撤去す。(臺帳)

 

 

〇白河橋

白河橋は中区上日置町白山神社の前、溝渠(七志中川〈七志水川の誤り〉)に架せり。昔は法然寺の地域廣くして、此邊に及び、本尊は京都の白河より来りしより、此名を得たりと。(尾張名陽図会)

 

 

〇鶯橋

鶯橋は中区上堀川橋と下堀川町との間の溝渠(七志水川)の吐口に架し。長3間2尺8寸5分、幅2間8寸5分ありき。明治25年、34年、43年に改築し、下水道改良工事の為め、大正3年撤廃す。(臺帳)

 

 

〇小川橋

小川橋は中区丸田町、新堀川上流支線に架し、長3間5尺、幅3間1分あり。明治42年5月新設竣工す。(臺帳)

 

 

〇東松元橋

東松元橋は中区松元町の新堀川上流支線に架す。長6間4尺2寸、幅1間3尺あり。新設年月詳ならず。(臺帳)

 

 

〇松元橋

松元橋は中区松元町、新堀川上流支線にあり。長6間3尺、幅1間3尺、木製なり。(臺帳)

 

 

〇長總橋

長總橋は中区川端町一、二丁目跨り、新堀川上流支線に架す。長6間3尺、幅2間ありて、木製なり。(臺帳)

 

 

〇岡部橋

岡部橋は中区東川端町一、二丁目跨り、新堀川上流支線に架す。長6間4尺2寸、幅3間あり。新設木橋なり。(臺帳)

 

 

〇鶴舞橋

鶴舞橋は西川端町と東川端町との間、新堀川の北部に架す。長18間1尺8寸、幅2間あり、明治42年5月の新設なり。(臺帳)

 

 

〇鶉橋

鶉橋は鶴舞橋の南、新堀川に架す。長18間1尺2寸、幅2間あり、明治42年5月の新設なり。(臺帳)

 

 

〇記念橋

記念橋は鶉橋の南、新堀川に架す。長18間、幅6間の鉄橋なり。明治42年8月架設す。(臺帳)

 

 

〇宇津木橋

宇津木橋は記念橋の南、富士見橋の北、新堀川に架す。長17件4尺8寸、幅2間あり。明治42年5月架設す。(臺帳)

 

 

〇富士見橋

富士見橋は宇津木橋の南、東雲橋の北、新堀川に架す。長16間餘、幅2間あり。明治42年3月の新設なり。(臺帳)

 

 

〇東雲橋

東雲橋は富士見橋の南、新堀川に架す。長15間5寸、幅2間あり。明治42年4月の新設なり。(臺帳)

 

 

〇法螺貝橋

法螺貝橋は東雲橋の南、立石橋の北、新堀川に架す。愛知郡御器所村字鳥喰(とりばみ)の地なり。長15間、幅1間あり。明治41年11月新設し、市にて管理す。(臺帳)

 

 

〇立石橋

立石橋は法螺貝橋の南、熱田東町字古川田にて、新堀川に架す。長15間、幅1間あり。明治41年11月架設す。(臺帳)

 

 

〇夜寒橋

夜寒(よさむ)橋は立石橋の南、熱田東町字四ツ谷にて、新堀川に架す。長15間3尺8寸、幅1間あり、明治41年11月の新設なり。(臺帳)

 

 

〇高座橋

高座(たかくら)橋は夜寒橋の南、熱田東町字竹ヶ鼻にて、新堀川に架す。長15間2尺5寸、幅1間あり。明治41年1月の架設なり。(臺帳)

 

 

〇牛巻橋

牛巻橋は高座橋の南、熱田東町字牛巻にて、新堀川に架す。長15間、幅1間半あり。明治41年11月架設す。(臺帳)

 

 

〇日ノ出橋

日ノ出橋は牛巻橋の南、神宮東門筋(熱田東町字大新開)新堀川に架す。長14間3尺7寸、幅2間あり。明治41年11月架設す。(臺帳)

 

 

〇千鳥橋

千鳥橋は日ノ出橋の下、熱田東町字東北にて、新堀川に架す、長15間2尺4寸、幅1間あり。明治41年1月の新設なり。(臺帳)

 

 

〇瑞穂橋

瑞穂橋は千鳥橋の下、熱田東町字文齋にて、新堀川に架す。長9間1尺5寸、幅2間あり。明治42年1月の新設なり。(臺帳)

 

〇熱田橋

熱田橋は浮島橋の北、熱田伝馬町筋の国道の当り、新堀川に架す。長15間6寸、幅4間1寸あり。明治39年、新堀川開鑿の際新設す。(臺帳)

 

 

〇浮島橋

浮島橋は熱田橋の下、熱田東町字浮島にて、新堀川に架す。長15間、幅2間2尺あり。明治41年1月の新設なり。(臺帳)

 

 

〇御田橋

御田橋は熱田東町字御田の地に在りて、熱田神宮東門通の運河に架す。長8間5尺8寸、幅2間5尺8寸あり。運河開鑿の際、釣橋として新設せしが、明治42年改築して、今の名に改む。(臺帳)

 

 

〇丸山橋

丸山橋は熱田東町字丸山の秋葉道、運河に架す。長12間半、幅2間あり。運河開鑿(自明治29年至同30年)の際、木造釣橋なりしも、明治39年改築して木橋とし、元釣橋と称せしが、45年に改築してより、今の名に改む。(臺帳)

 

 

〇裁断橋

裁断橋は裁談橋、齊淡橋、三淡橋など書し、俗に御姥子(おんばこ)橋又はサンダガ橋と云ふ。熱田伝馬町筋の国道に当り、精進川に架す。長10間、幅3間1尺(徇行記には長11間半、巾3間、愛知郡志には長10間、幅3間とあり)、石礎木製にして、欄干に唐銅の擬宝珠を附す。天正18年、堀尾金助(堀尾吉晴の子なりと)と云ふもの、生年18歳にして、小田原役に従軍し、彼地に戦死す。其母哀悼の餘り、三十三囘忌の追善に、此橋を修造せるよし、擬宝珠に彫す。擬宝珠4箇現存し、その中3者漢文、1者国文にて記す。古雅書に曰く、「按るに此所に往昔より橋ありしと見えて、永正6年熱田講式に、裁断橋の名見え侍る(鹽尻に有)。享禄2年の熱田總図にも此橋見えたり、云々。去る享保7寅8月14日、大風の節、此橋破壊せし處、其後修復有之、元の如しと云々」、正事記に「齊淡の橋、くだに糸を巻て、橋の下投おとす事あり」と云へば、寛文頃の風俗と見えたり。寛文9年橋懸替の事は、金鱗九十九之塵に出づ。明治14年にも之を改架せり。(尾張志、名所図会、熱田宮略記、海邦名勝志、名古屋金石銘)

 

〈熱田之記、古雅書、東南隅擬宝珠の銘、西南隅擬宝珠の銘、徇行記からの引用あり。省略〉

 

 

〇羽城橋

羽城橋は熱田羽城町と富江町との間、精進川に架す。長9間3尺3寸、幅1間3尺6寸5分あり。明治24年、熱田町役場にて架設す。(臺帳)

 

 

〇明治橋 〈跨線橋〉

明治橋は中区禰宜町の道路(下廣井町筋)上位に架す。長8間1尺4寸、幅4間あり。明治32年、道路改修の際新設し、明治44年に修理を加ふ。(臺帳)

 

 

〇金山橋 〈跨線橋〉

金山橋は熱田東町字宿龜にありて、大津町通、中央線鉄道の上に架す。長3間4尺2寸、幅13間1尺の木鉄混用橋なり。大津町通道路改修の際新設す。(臺帳)

 

 

〇高座橋 〈跨線橋〉

高座橋は金山橋の南、大津町通にて東海道鉄道の上に架す。長4間5尺4寸、幅13間1尺の木鉄混用橋なり。大津町筋道路改修の際新設す。(臺帳)