稲生杁と日比津杁 [庄内用水疑問抄]

①稲生杁と日比津杁について

元亀・天正年間(1570~92)に庄内用水が開削された。

その後、慶長19(1614)年に稲生村に定井が設けられる。

寛永19(1642)年には、

①稲葉地井筋に近い日比津村にも取水施設が造られる。これにより稲生村と日比津村の2ヵ所で庄内川から取水となる。(名古屋歴史ワンダーランド「庄内用水年表」に基づく)

②庄内川から取水するための施設である定井が日比津村にも造られる。(『タウンリバー庄内用水』に基づく)

正保4(1647)年、日比津村にあった取水口を、稲生村に移設。ただし杁が統合されたわけではなく、稲生村に2つの杁がある状態。日比津の定井は廃止。

 

庄内用水初期、以上のような変遷があった。定井は取水施設そのものではなく、取水のため庄内川に築かれた堰のこと。「定井が設けられる」以前から、取水施設自体は稲生村に存在していた。元亀・天正年間(1570~92)の開削だから、それは当然だろう。

一方、日々津村の場合は、寛永19(1642)年に、①取水施設そのものが新設されたか、②稲生と同じく定井が設けられた(つまり、取水施設自体はそれ以前から存在していた)か、2通り考えられる。

 

『タウンリバー庄内用水』の図では、稲生杁から東井筋および西江筋以下の水を取水し、加えて米野井筋~日比津分水地間の西江筋に日比津杁から取水した水が合流する形になっている。この図で示されている通り、稲生村で取水した水が東井筋・米野井筋・中井筋・稲葉地井筋のいずれにも流れ込んでおり、その途中の日比津村でさらに取水していた、というのがこれまでの定説である。

『タウンリバー庄内用水』より
『タウンリバー庄内用水』より

 

しかし、私は別の考え方が有り得るように思う。日比津村の取水施設について従来の説が2通りあるので、新しい説もそれぞれに則って書き分ける必要がある。

 

【新説1】(先述の①に則る)

元亀・天正年間(1570~92)に開削された「庄内用水」とは、東井筋(江川)だけだったという説。西江筋以下、米野井筋・中井筋・稲葉地井筋の開削は寛永19(1642)年まで遅れる。そして、正保4(1647)年、日比津村にあった取水口を、稲生村に移設したことで、庄内用水全体が稲生取水になった。

 

【新説2】(先述の②に則る)

元亀・天正年間(1570~92)に開削された当時の庄内用水は、稲生取水の東井筋と、日比津取水の米野井筋・中井筋・稲葉地井筋が完全に分離独立していたという説。その後、それぞれの杁に定井が設けられた。正保4(1647)年、日比津村にあった取水口を、稲生村に移設したことで、庄内用水全体が稲生取水になった。

新説1及び新説2の概要図
新説1及び新説2の概要図

 

 

下は、なごやコレクションで見られる「尾陽之図」で描かれた庄内用水の姿。

『尾陽之図」に描かれた庄内用水の姿 (転写)
『尾陽之図」に描かれた庄内用水の姿 (転写)

(「尾陽之図」:なごやコレクション)

 

ここでは、米野井筋・中井筋・稲葉地井筋はいずれも庄内川から直接取水しているような書かれ方をされている。その取水地点は枇杷島橋の下流、つまり日比津だ。天明期の写しで原本の作成年は不詳とされているが、正保4(1647)年頃までの成立であると考えられる。

 

この3井筋については、明らかに”日比津での取水が主体となっている”ように見て取れる。開削当初、稲生杁からの水を引いていて、後から日比津杁が新設されていたとしたら、こういう描き方にはならなかったのではないかと思うのだ。図には稲生から米野井筋に至る水路(西江筋)も描かれている。しかしなんとなく、「後から付け足した」感が否めない。もっともこの図は写しだから、本来の描画がどこまで正確に再現されているか分からないが。

 

 

稲生から米野井筋にかけて斜めに描かれた西江筋についてもう少し考察してみたい。

まず、従来の説に則った場合、①にしろ②にしろ、元亀・天正年間(1570~92)からこの水路は存在し、稲生で取水した水を米野井筋・中井筋・稲葉地井筋の各井筋に送水していたはずだ。しかし、本図では米野井筋に接続しているだけであって、中井筋・稲葉地井筋へ流れ込む構造にはなっていないことが疑問だ。従来の説の場合、①に則れば、本図の作成年は寛永19(1642)年~正保4(1647)年の間になるだろう。日比津杁が存在していたのは、その5年間だけだからだ。②に則れば、寛永19(1642)年に日比津にできたのは定井であって、取水施設自体は開削当初から設けられていたことになるから、本図の作成年は元亀・天正年間(1570~92)~正保4(1647)年の間になるだろう。

 

一方、今回提案した新説に則るとどうだろう。

稲生から米野井筋に至る流路が存在しているということは、日比津から稲生に杁が移設された正保4(1647)年以降の様子ということか。しかしそれでは、日比津杁が堂々と描かれている事との整合性がない。ここで鍵となってくるのが、先述の「後から付け足した」感だ。この図が正保4(1647)年までの間に作成され始め、完成間近になって日比津杁が稲生に移り、新たに稲生から日比津(米野井筋・中井筋・稲葉地井筋)に至る水路が開削された。なので「後から付け足した」。そう考えることも出来るのではないか。

その上で、【新説1】に則った場合は、寛永19(1642)年に日比津杁が出来て以降の図。【新説2】に則った場合は、定井が描かれていれば寛永19(1642)年以降と特定できるが、稲生を含めてそもそも描画していないと思われるので、庄内用水開削以降の図だということ以上の特定は出来ない。(もっとも、濃尾平野の他の河川の情報を調べることで、期間を絞ることは可能かもしれない)


以上、日比津杁について前からやや引っかかることがあったので、文章にしてまとめておいた。考えていることに根本的な誤りはないと思っているが、定説と大きく異なることは確かなので、今後も検証していきたい。昔の絵図を見たときはこの辺を必ずチェックしないと。ちなみに、現時点の庄内用水のページは、従来の説の②を基調として書いてある。本稿での検証をもって本編の内容を変えてしまうのは時期尚早と感じるため、もう少し考えや、あるいは議論が深まってからの編集としたい。

 

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