なかいすじ(そうべいがわ)

中井筋(惣兵衛川) - 庄内用水

中村区篇

中井筋(惣兵衛川)の流路
中井筋(惣兵衛川)の流路

<基本データ>

名称  庄内用水中井筋

別称  惣兵衛川

形態  暗渠/開渠

開削  元亀・天正年間(1570~92年)

          新田開発に伴って南へ延長

延長  7.5km(現存部分のみ)

流域  名古屋市中村区・中川区・港区

主要な分水 長北用水

      松葉分水(仮)

      高畑用水

 

 

<くわしく>

惣兵衛川の名前で知られる庄内用水の井筋のひとつ。日比津分水地で稲葉地井筋(西井筋)と分かれ、中村区・中川区・港区を流れる農業用水路である。

 

中村区内のすべての区間で暗渠の中を流れる。つまり中村区内ではその水面を見ることができないわけであるが、その内ほとんどの区間が「中井筋緑道」として整備されているため、逆に散歩などで日常的に多くの人に親しまれているとも言えよう。

中川区に入ると蓋暗渠の区間も残っている。遊歩道として整備されていない「素」の暗渠とでも言おうか。中井筋緑道の整備前は中村区内でも同じような蓋暗渠が続いていたわけで、取り残されたように残る景色に中井筋のむかしを思わずにはいられない。しかしながら一部の蓋暗渠区間を除けば、中川区内でも多くの区間が遊歩道として整備されている。こちらは水面を見ることもできる構造だ。

 

流域では大正末期から昭和にかけて耕地整理や土地区画整理が各地で実施された。分水については各所で大きな変化があったが、中井筋本流はおおむね元来の流路を引き継いでいる。一部、日比津分水地の付近などでは流路に多少の変化があった。

 

かつて港区の大手排水路まで達していたが、荒子川運河の開削に絡み流路の付け替えや下流との分断があり、また流域の発展に伴って水田が減少していったため次第にその役目を終えた。現在は中川区畑田町の中島導水路が実質的な最下流部となっており、導水路を通じて中井筋のすべての水が荒子川へ流れ込んでいる。以南の流路は一部暗渠として現存しているものの、ほとんどの区間は埋め立てられており、痕跡のみを今に残している。 


中井筋の記事は中村区篇と中川区・港区篇に分けている。下流部については下のボタンからご覧ください。


日比津分水地

大江筋、西江筋として流れていた庄内用水が大きく2つに分かれる地点がある。中村区日比津町の日比津分水地である。庄内用水の上流ではかつては東井筋や米野井筋が分水していたが、既に下水道に転用されたり埋め立てられたりして現存しておらず、ここが現存する最も大きな分水地点だと言っていいだろう。

 

下の写真はおおよそ南東を向いて撮影したもので、右手に流れていくのが稲葉地井筋(西井筋)、中央奥に向かって流れていくのが今回追っていく中井筋である。地上からは地下の暗渠の様子はうかがい知れず、またここに用水が流れていることを示唆する特徴も少ない。若干広い道路幅からそこに用水が流れていることを感じとることができなくもない、という程度だ。そんなわけなので、中村歴史の会の「日比津村」に掲載されている往時の様子を描いたイラスト、これが非常にイメージしやすいからご紹介させていただこうと思う。上流側から分水地を見た構図で左へ分岐していくのが中井筋である。

日比津分水地より中井筋の下流を望む
日比津分水地より中井筋の下流を望む
転載にあたり着色しました(©中村歴史の会)
転載にあたり着色しました(©中村歴史の会)

 

実は、日比津分水地から本陣通(外堀通)までの約500mの区間は、近年まで、開渠の頃の水路にコンクリート蓋を掛けただけの状態だった。しかしこれも時代の流れなのだろうか、2015年にボックスカルバートによる完全な暗渠化が行われてしまった。

中村区内の下流部が「中井筋緑道」という遊歩道として整備されているのに対して、この区間はアスファルトで塗り固められ、まったく水の気配を感じることができない味気ない空間になってしまった。蓋暗渠が失われたことと同時にそのことも非常に残念であって、なぜ遊歩道としての整備が行われなかったのか、大いに疑問を抱かざるを得ない。

 

以下の写真は平成26(2014)年に撮影した、蓋掛けの暗渠が存在していたころのものである。ガードレールで囲まれた中に幅広のコンクリート蓋が延々続いている様は、暗渠好きにとってはたまらない光景だったのではないか。

今はなき風景
今はなき風景
「日比津8号橋」とある
「日比津8号橋」とある
橋の欄干
橋の欄干

 

以下のツイートは2014年と2018年の写真を並べその変化を定点比較したものである。蓋暗渠が失われて既に3年程度を経ているものの町の風景は中井筋を除いてはほとんど変わっておらず、そのことが余計に寂しさを誘う。


緑道と橋跡

本陣通の南からついに遊歩道が始まる。ここからが中井筋緑道として整備されている区間であり、緑道はこの先烏森駅までの長きに渡って続いていく。そしてその北端で我々を出迎えるのはなんとも不思議な形のモニュメントだ。こうしたモニュメントが各所に設置されているのも中井筋緑道の特徴である。

水の流れを表現したのか?
水の流れを表現したのか?

 

同じ中井筋緑道でもエリアごとになんとなく個性があり雰囲気に違いがある。中村公園以北のこの辺りは歩道の端にせせらぎが整備されており、その反対側には、まだ小さいながらも並木がある。せせらぎはあまり通水はされている姿を見ないのだが、季節によっては、水が流れるのだろうか。(2014年夏に確認した際には水が流れていたと記憶している。)

 

遊歩道と道との交点にはかつて橋が架かっていた。そこが暗渠でありかつては開渠だったことを考えれば当然である。

耕地整理、区画整理の前から存在した橋には固有の名前が付いており、後に架けられた多くの橋には「○○何号橋」といった名前が多く、あるいは名前が付いていない橋もあったようだ。

中井筋も暗渠化・遊歩道化されて久しく、かつてあった橋の名前を知る人も数少ないだろう。しかし中村公園以北の緑道では先述のせせらぎの端に欄干のようなものがあり、そこにかつての橋の名前が記されているのだ。気付く人は少ないかもしれないけれど、こうして名前を残そうという試みは素晴らしいものだと思う。

枯れたせせらぎ
枯れたせせらぎ
「豊幡(とよはた)橋」のミニ欄干
「豊幡(とよはた)橋」のミニ欄干
「豊幡二号橋」のミニ欄干
「豊幡二号橋」のミニ欄干

 

中村公園、中村スポーツセンターの東側では公園側と一帯となって歩道が整備されており、この区間に限っては暗渠の直上が緑道として利用されているわけではない。その代わりと言ってはなんだが、面白い「暗渠サイン」に出会うことができる。暗渠の上は車道である。つまりアスファルトで舗装されているわけであるが、このアスファルトが暗渠のコンクリート蓋の境目に合わせてひび割れているのである。暗渠の蓋を直接見ることはできないものの、アスファルトというフィルターを通して中井筋の存在を感じ取ることができるというわけだ。

スポーツセンター北で一度途切れる遊歩道
スポーツセンター北で一度途切れる遊歩道
スポーツセンター横。中井筋暗渠は左の車道下
スポーツセンター横。中井筋暗渠は左の車道下
一定間隔でひびが入っているのが分かるだろうか
一定間隔でひびが入っているのが分かるだろうか

キヨマサハシ

清正公通との交点には「清正橋」が架かっていた。加藤清正の出生地である妙行(みょうぎょう)寺が近くにある。この道はかつては清正公道と呼ばれていて、後に中村郡道の一部となって拡幅され、戦後、清正公通となった後にもう一度拡幅された。

「清正橋」の親柱は2世代分がそれぞれ保存されており、さらに写真を含めると3世代分が確認できる。

 

 

①妙行寺境内の親柱 - 明治16(1883)年5月

明治16(1883)年、昔から大秋村と上中村をまっすぐ結んでいた道が、名古屋伝馬町の商人・服部増蔵氏によって拡幅された。この橋はその際に架けられたものだ。氏は日頃から清正公を敬い、命日には従業員を引き連れて妙行寺への参拝を欠かさなかったといい、この道の拡幅に私財を投じた。親柱にも名前が刻まれている。

かつて、拡幅について記録した碑が700ḿほど東の西福寺にあった。その碑の建立が明治23(1890)年7月であることから、拡幅がその年に行われたとする文献もあるが、橋が明治16(1883)年に既に架かっているのだから、それは有り得ない気がする。

 

欄干と接続していた形跡はない(おそらく欄干そのものが無かったのではないか)から、正確には親柱と呼ぶのは間違っているかもしれない。当時は橋の袂に置かれていたものと思われる。

「キヨマサハシ」
「キヨマサハシ」
「明治十六年未五月」
「明治十六年未五月」
「石橋架設」
「石橋架設」
「新道開設」
「新道開設」

 

②中村公園内八幡社境内の親柱 - 昭和6(1931)年3月

中村郡道が拡幅された際に明治16(1883)年のものに取って代わった。戦後再び拡幅される昭和35(1960)年頃まで使われた。

4本すべてが現存している
4本すべてが現存している
裏側には欄干と接続していた痕跡が
裏側には欄干と接続していた痕跡が

 

③戦後、清正公通の拡張に伴って架け替えられた清正橋

この親柱は残念ながら現存していない。写真は『上中村・稲葉地 語り伝えの記』および『上中村』(中村歴史の会)に掲載されているものだ。八幡社に残る昭和6(1931)年の親柱とは明らかに違う形をしており、戦後、清正公通が拡幅された際に架け替えられたものと思われる。拡幅の時期は昭和35(1960)年頃であるが、正確には分からない。

清正橋(手前)から北側を写した写真。1990年頃
清正橋(手前)から北側を写した写真。1990年頃
同じく清正橋から北の中井筋蓋暗渠を撮った写真
同じく清正橋から北の中井筋蓋暗渠を撮った写真

田んぼより高いところを

水の流れから少し離れて、横から中井筋を見てみよう。中井筋は写真奥を左右に横切っているのだが、周囲よりも若干(50cm程度だろうか)高くなっているのが見て取れるだろうか。

数十m先のレンガ敷きになっているところが中井筋
数十m先のレンガ敷きになっているところが中井筋

 

水は地球の重力によって高いところから低いところへ流れるわけで、基本的には川は土地の低いところを流れている。中村区にかつてあった笈瀬川や柳瀬川もそうだ。しかし、用水というのはそれには当てはまらない。繰り返すが、水は高いところから低いところに流れる。だから、田んぼに水を供給するためには、用水が周囲よりも高い位置を流れている必要があるのだ。東京・武蔵野台地の例を出すと、台地上の高いところを玉川上水とその支流が流れ、その水が谷にある田んぼ、つまり低いところに供給されていた。このように用水が高いところを流れているのは日本中でよく見られる形態なのだが、一見すれば全く平坦であるように見える中井筋においても、実はその流路に沿って馬の背状の微高地が続いているのだ。

 

下の地理院地図は標高を示したもので、0.5mごとに色の塗り分けがされており、赤いところが高く、緑のところが低くなっている。中央の赤い点線で示したのが中井筋の流路で、それに沿って微高地が続いているのをはっきりと読み取ることができる。

横から見た写真は、地図中「○」の地点で撮影
横から見た写真は、地図中「○」の地点で撮影

 

この微高地については、日比津分水地より上流は庄内川の古堤、中井筋や稲葉地井筋は自然堤防が元になったようである。ただし日比津分水地付近の流路は区画整理に合わせて直線的に付け替えられたため、現状では古堤の上を流れているということはない。

区画整理前の流路を明治31年の国土地理院地図で確認すると、栄生から日比津分水地の辺りにかけて、細かい蛇行を繰り返していることが分かる。この区間はおおよそ庄内川の流れと並行しており、蛇行は古い堤防をそのまま活用したために生まれたものと考えられる

旧版地図に筆者加筆
旧版地図に筆者加筆

歴史と親しみ

周囲よりも少し高い微高地の上を流れていく中井筋。

中村区中村町ではかつて鎌倉街道と交わっていた。鎌倉街道というのは関東地方の「いざ鎌倉」で有名であるが、ここでは鎌倉時代に鎌倉と京を結んだ道のことを言い、常陸国の小栗城城主小栗判官小次郎が遊女照手姫と鎌倉から熊野へ湯治に行くときに通ったという艶説から小栗街道とも呼ばれていた道でもある。現在街道の跡にそれと分かるような痕跡は全く残っていないものの、昭和7年に区画整理が行われた際には、中井筋と街道跡との交わる位置に「小栗橋」が架けられた。

「今昔マップ」に筆者加筆。青いマークは同位置。
「今昔マップ」に筆者加筆。青いマークは同位置。
小栗橋の親柱(「上中村・稲葉地語り伝えの記」より)
小栗橋の親柱(「上中村・稲葉地語り伝えの記」より)
小栗橋跡の現在
小栗橋跡の現在

 

忘れかけていた歴史を思い、かつてこの地を歩いた多くの旅人たちに思いを馳せながら暗渠の上を歩こう。

余談だが、ここ中村の地は豊臣秀吉、加藤清正の生まれ育った地である。彼らは実際に鎌倉街道を歩く旅人たちをその目で見、あるいは街道の先にある遠い国々のことを考えていたかもしれない。庄内用水の開削は元亀・天正年間(1570~92)と伝えられている。まさに秀吉が活躍していた、そんな時代の中で生まれたこの用水は、非常に長い歴史の中を流れ続けてきたのである。

 

小栗橋跡のあたりから、遊歩道に付随している車止めがカラフルになる。これらは元々は塗装されておらず錆も目立っていたのを近所に住む方が素晴らしいセンスで美しく仕立て上げたものである。煙草の吸殻入れとして小さい赤いバケツがぶら下げられているところもある。いつごろだったろうか。週一回程度通っていたので、見るたびに塗られた車止めが増えたり、あるいは稲穂のモニュメントの塗装が完成に近づいていったりしていたのを覚えている。写真(1、2枚目)は2014年の撮影なので、少なくともそれ以前のことである。

カラフルな車止めの数々
カラフルな車止めの数々
稲穂のモニュメントは左右で若干違うのが気になる
稲穂のモニュメントは左右で若干違うのが気になる
遊歩道に華を添えている
遊歩道に華を添えている

 

太閤通に近づくとなんとも不思議な設計の遊歩道が現れる。本来は下段に水を流すようにできているのだろうが、その様子をこれまで一度も目にしたことが無い。暗渠マニアックスの吉村氏も「水面は想像すれば良いと思っているので、親水空間の必要性は感じない自分であるが、此処は「川の上を歩ける、という暗渠の愉しさ」も保たれている点において、良い親水空間」であると評した。ぜひ、水を流して開渠のころの雰囲気を少しでも感じたいところだが、その予定はあるのだろか。

稲穂のモニュメントの背後からそれは始まる
稲穂のモニュメントの背後からそれは始まる
下を水が流れる構造
下を水が流れる構造
趣のある東屋も好き
趣のある東屋も好き

親柱の残る「楠橋」

中井筋と太閤通とが交差する地点、交差点の名前は「楠橋」だ。中井筋が開渠だった頃ここに架かっていた橋の名前である。今はなき橋の名前が交差点名として残されるというのは、暗渠沿いではしばしば見られることであるが、ここもその典型的な例である。中井筋は写真右奥から手前に流れてきている。

中井筋と「楠橋」の標識
中井筋と「楠橋」の標識
中村土地区画整理組合道水路平面図に描かれた楠橋
中村土地区画整理組合道水路平面図に描かれた楠橋

 

楠橋交差点を渡り太閤通南側へ。遊歩道の脇には「楠橋」とある親柱が1つだけ残されている。太閤通は東へ行くと広小路に繋がる道であり中村区内においても最も主要な道であるので、立派で重厚感のあるデザインには納得だ。

欄干の痕からして本来とは向きが逆になってしまっているようではあるが、そもそも少しずらして保存されているものであるから、そんなことはあまり気にしない。重要なのはこうして貴重な遺産を残してくれたという事実であるからして、まずは保存に努めた先人達へひとえに感謝。中井筋緑道においても大きな見所のひとつなのではないかと思う。

「楠橋」とあるのが読み取れるだろうか
「楠橋」とあるのが読み取れるだろうか
流路と反対側に欄干の痕が
流路と反対側に欄干の痕が

 

またかつて太閤通には名古屋市電中村線(1972年廃止)が走っており、この地には同名の電停が存在していた。

名古屋市都市計画基本図(昭和33年)より
名古屋市都市計画基本図(昭和33年)より

魅惑の緑道、下中村の分水

中井筋緑道を歩く。楠橋を越え太閤通の南側へ来ると遊歩道の雰囲気が変化する。地面のタイルは暖色系になり、少年少女の銅像が点在、左右の車道はにわかに狭くなる。周辺の雰囲気とも相まって、散歩などをするには格好の遊歩道だという感じがする。

南から楠橋を望む。こっちにも東屋あり
南から楠橋を望む。こっちにも東屋あり
その装いをがらっと変える中井筋緑道
その装いをがらっと変える中井筋緑道

「少年と少女」
「少年と少女」

 

そんな遊歩道にまず現れるのは、本流とY字に分かれる現地でも分かりやすい分水の跡である。

 

用水は田んぼに水を供給する目的のために存在するわけで、そのためには本流である中井筋がただ流れているだけでは用を成さない。すなわち中井筋からは多くの分水が存在していたはずである。太閤通以北では耕地整理・区画整理によりそれ以前の分水の痕跡は失われ、そして整理以後に存在した分水は道の端に沿う単純なものであったはずだから、現在これといった痕跡は残されていない。

分水の跡。水の流れが見えるよう
分水の跡。水の流れが見えるよう
土地宝典[西区(旧制)/昭和10年]より
土地宝典[西区(旧制)/昭和10年]より

 

右が中井筋、左に分岐する細い道が分水の跡だ。辿ってみよう。まず舗装された道が続いていて、その先は道としてではないもの家と家の隙間に敷地がある。この隙間は20mほど続いているが、やがて家々に飲み込まれるように消滅してしまう。土地宝典からも分かるように用水はその先も続いていたわけだが、現在痕跡として残っているのはそこまでの非常に短い区間のみである。

ここを水が流れていた!
ここを水が流れていた!
家々の隙間に取り残された用水跡
家々の隙間に取り残された用水跡
飲み込まれて消えてゆく
飲み込まれて消えてゆく

この分水の痕跡がこうして残っているのにはわけがある。そしてなぜ家々の隙間で途切れてしまうのかということにも、はっきりと答えがある。

 

実はこの場所は上流側「下中耕地整理組合」と下流側「名西土地区画整理組合」の境界だったのだ。ではなぜ上流側のみ痕跡が残ったか。それは2つの耕地整理・区画整理の実施時期に"ずれ"があったからである。具体的には、下中耕地整理組合は大正14(1925)年設立・昭和7(1932)年換地処分であり、名西土地区画整理組合は昭和2(1927)年設立・昭和14(1939)年換地処分であった。つまり、耕地整理を実施した段階では依然この水路を使用して下流へ水を送る必要があった。地区内を整理する中で、この水路だけは必然的に残し置かれた。数年後、下流部の流路が区画整理により完全に失われ、役目を終えた上流部の水路も埋め立てらた。

ーーーこれが事の顛末である。整理の実施時期の"ずれ"が、奇しくも農村時代の名残を後世に残すことに繋がったのである。

 

 

下中村に残された分水の痕跡はこれだけではない。少し南では、中井筋から西側への分水が3ヶ所存在していたこれらはいずれも下中村の集落の中を流れていたので耕地整理の対象にならず、今日までその痕跡を残すこととなった。もちろん、この周辺では水田は全く残っておらず、いずれの分水も現在は役目を終えている。

下の土地宝典中、分水-1と示した一番北の分水は一部の水路が開渠のまま残っており、大変に貴重な存在だ。中井筋からの分水部は少し前までアジサイの木に覆われていたが、水路沿いでアパートが新築された際に一掃され、現在ではその状況がよく分かるようになった。残っている開渠は一般の側溝と同程度の細いものであるが、水路敷自体はその数倍の幅があり、あるいはかつてはもうすこし幅があったかもしれない。上流端には中井筋から分水していた痕跡と思われる構造物が確認できる。

分水-2の地点にはいかにも暗渠的な特徴を有する路地があり、一部では側溝が存在している。それが分水の直接の名残なのかどうかは定かではないが、マンホールがあることから推測するに、側溝とは別に路地の下には下水管も通っているようだ。

土地宝典[西区(旧制)/昭和10年]より
土地宝典[西区(旧制)/昭和10年]より
分水-1の跡に残る開渠
分水-1の跡に残る開渠
分水-2の跡
分水-2の跡

これらの分水については以下でくわしく述べている。

下中大橋跡の碑と往還橋

名古屋城下と佐屋街道を短絡していた柳街道という道がある。祢宜町(現在の名駅南1丁目の辺り)から牧野村、上米野を経て南下し、中井筋とは一部で並行するような位置関係にあった。その柳街道と中井筋の交点に架かっていたのが往還橋である。中村歴史の会の「下中村」には「おんか橋」という名前で書かれており、往還がなまって「おんか」と呼ばれていたのだと思われる。

 

柳街道から分かれ下中村の集落に繋がっていた道との交点に架かっていたのは下中大橋。名前からも想像できるようにこの橋は下中村の人々にとって重要な存在だった。平成14(2002)年、中井筋緑道に「下中大橋跡史」と題した石碑が建立された。植え込みの中に佇むすてきな碑である。

 

戦前、南郷中(下中村)は戸数百軒ほどの専業農家で、人々の市街地への交通はおおばしを渡って柳街道(烏森郵便局~名駅南1丁目)に出る一本の道だけだった。そのため、「いってらっしゃい、おかえりなさい」の一軒の玄関のようであった。

 このおおばしは、朝には農作物を満載した大八車や、リヤカーを引く人々を見送り、お昼にはお金を手にした村人を迎えた。たくさんの乳母車を押した人も渡り、子供たちでにぎわった。ときには馬車も通った。縁あってこの村に嫁いでこられた人が渡られたときには「おめでとう、共に暮らしましょう。」と迎え、出てゆく人には「がんばれよ。」とエールを送った。この村でよく働いてくださった方々の葬送の行列も通った。また、先の大戦で無言の帰村をされた方々もこのおおばしを渡った。

「今昔マップ」に筆者加筆。青いマークはほぼ同位置。
「今昔マップ」に筆者加筆。青いマークはほぼ同位置。
下中大橋の石碑と橋の跡(奥)
下中大橋の石碑と橋の跡(奥)
往還(おんか)橋跡の現在
往還(おんか)橋跡の現在

長北用水

長北用水は中井筋から分水していた主要な用水路のひとつ。その名前は灌漑先の長良村、北一色村に由来している。中井筋を辿っていても普通の道と見た目では区別がつかず気付かないかもしれないが、写真左手に分岐している道がその跡である。

 

しかし、地図上であればすぐにでも長北用水の跡を見つけることが出来るだろう。整理された道の中で、斜めに横切っている用水跡は明らかに異質であるからだ。この区間の長北用水は耕地整理の際に元の流路がそのまま残されたため、こうして分かりやすい痕跡を残す結果となった。

 

この用水は下流で笈瀬川に注いでいたが、現在も中川運河に至るまでその流路跡に様々な痕跡が残っている。詳細は以下のボタンから。

左方向の道が長北用水の跡
左方向の道が長北用水の跡
斜めに横切る長北用水(旭耕地整理組合地区確定図)
斜めに横切る長北用水(旭耕地整理組合地区確定図)

烏森駅へ、そして松葉分水(仮)

高速道路が頭上を貫く畑江通を越えると、中井筋は高須賀町(かつての高須賀村集落)の西側に沿って南流していく。遊歩道は淡々と続いていくイメージだ。並行する道の幅は東西で差があって、西側はめちゃくちゃ広いところもある。

奥が畑江通
奥が畑江通
下流を向いて撮影。落ち着いた住宅街って感じ
下流を向いて撮影。落ち着いた住宅街って感じ

 

中井筋はその南で近鉄烏森駅の真下をくぐり抜けて、中川区へと入る。その手前、烏森駅の北100mくらいの辺りから、遊歩道の幅がにわかに広くなる。そしてその中央に桜並木が出現する。幹はそんなに太くはないが、枝葉が広がり、かなり存在感のある並木だ。

烏森駅を前にして、幅が広がる中井筋緑道
烏森駅を前にして、幅が広がる中井筋緑道
中井筋緑道でいちばんの並木
中井筋緑道でいちばんの並木

 

実はこの桜並木の部分で遊歩道が広くなっているのは、かつて分水があった痕跡である。中井筋から分水し、そしてしばらく並行して流れていた。その並行していた跡が遊歩道に取り込まれているので、幅が広くなっているのだ。下の地図は中井筋、分水ともに開渠だった頃のものだ。

名古屋市都市計画基本図(昭和47年)より
名古屋市都市計画基本図(昭和47年)より
かつての松葉分水(仮)のイメージ
かつての松葉分水(仮)のイメージ

 

この分水を仮に「松葉分水」と名付けて呼んでいる。分水自体は今も現存しているが、中井筋からの分水地点は少し下流に移し替えられている。松葉分水(仮)には名古屋では珍しい蓋暗渠の路地がある。分水以後のについては別途の記事にまとめているので、下のボタンからご覧いただきたい。

 

近鉄烏森駅が目の前に迫る、桜並木の南端。水のモニュメントが設置されているこの場所が中井筋緑道の終着地点だ。モニュメントに始まり、モニュメントに終わる、そんな遊歩道である。

中村区内の中井筋は、一部を除き遊歩道としてよく整備され、多くの人々に散歩やジョギングなどで利用されている。ただ、「せせらぎ」については、一部の区間で導入されているものの、水の流れていない(せせらがない)状態であった。

中井筋緑道、終焉の地
中井筋緑道、終焉の地

 

烏森駅のすぐ下に「烏森口橋」がある。実際には北側は中井筋緑道となっていて暗渠だから「橋」という感じは全然ないのだけど、欄干があって橋名や架橋年が掲げられているから間違いない。

烏森口橋の欄干の奥に操作盤のような設備が置かれているが、これはおそらく、少し下流に移し替えられていると先述した松葉分水(仮)のものだろう。

烏森口橋の欄干。平成4(1992)年2月竣工
烏森口橋の欄干。平成4(1992)年2月竣工
右の大きいほうが中井筋、左が松葉分水(仮)
右の大きいほうが中井筋、左が松葉分水(仮)

 

ここの鉄道高架は北から順に近鉄、JR関西本線、あおなみ線となっている。間に挟まれたJR関西本線の高架下の駐輪場に入ってみると面白い。中井筋は駐輪場内にフレーチングがあるが、蓋暗渠がはじまるのは高架下を抜けてから。一方の松葉分水(仮)はあおなみ線の高架下で開渠となって現れる。

駐輪場。ここの下を中井筋が流れている
駐輪場。ここの下を中井筋が流れている
松葉分水(仮)は高架下で開渠となっている
松葉分水(仮)は高架下で開渠となっている

高架下を抜けた中井筋。いよいよ蓋暗渠の登場である
高架下を抜けた中井筋。いよいよ蓋暗渠の登場である

いよいよ蓋暗渠が残る区間へと突入する中井筋。ここから下流は中川区・港区篇をご覧ください。

後半へ続く!


作成 2018/11/01

更新 2019/10/10、2020/09/26、2021/03/10、2021/04/23

資料 中村土地区画整理組合道水路平面図:名古屋市市政資料館

   旭耕地整理組合地区確定図:〃

   土地宝典[西区(旧制)/昭和10年]:名古屋市鶴舞中央図書館

参考 タウンリバー庄内用水、下中村(中村歴史の会)、上中村・稲葉地語り伝えの記

   名古屋市都市計画基本図