『遊海島記』


柳田国男・著

 

神島に関連する部分のみ抜粋


    神島には家の数二百許(ばかり)あり。多くは海の業に暇なく、世に疎きが常なれど、時ありて名古屋、豊橋あたりに往き通う者あり。鳥羽の港よりは月に三四度、郵便脚夫、巡査などを載せて来る船あれば、島を出づるにはその帰途を待ち、または家の舟に送られても行くべけれど、あるいは三河路を廻り、伊良湖の方より島に帰らんとする者は、みなこと里人の許しを得て、岬の絶端なる小山の頂に上りて火を焼(た)けば、島よりその煙を望み見て、迎えの舟漕ぎ来るを習いとす。

 

    島の名のみも床しきに、月落ち懸る暁、または晴れたる日の夕は、端的(うちつけ)に仙境を望む思いありて、行きて見まほしさの耐えがたかりしを、島人も聞き知りて、水無月街宵の空の雲、吹き漂わす微風に乗りて、我を迎えの舟は来たりぬ。あたかも島の祭の日にて、その夜は芝居あり。明神の社の後なる小松原に舞台を設けて、潮風に黒みたる若者等、自ら俳優(わざおぎ)の巧みを真似び、妻や妹の眼を悦ばしむ。阿漕の平次、妹背山の鱶七など、いずれかは蜑少女(あまおとめ)の心を憧れしめざる。涙の堕つるに堪えぬ者もあるべし。素より手筒なる遊びながら、その人雑(ま)ぜもせぬ楽(たのしみ)を見ては、都の旅人は羨ましさに堪えざりき。

 

    想い出ずるままを書付けて、物語の乱雑(しどろ)なるを咎めずば、なお神島のことを言わんに、その夜我は更けて島の寺桂光院に宿りぬ。東と北とを見晴したる山腹にて、庭に聳えたる大小の巌直(ただち)に絶壁となりて、下は青潭(あおぶち)、波の音鞺鞳(どうとう)として物寂びたる夜を、砌(みぎり)の椿・熊笹の葉に月面白く照りたり。共に寝(い)ねたるは今宵の芝居にちょぼを語りし、松阪の某という者なり。白髪の翁にて酔いて善く談ず。年々この島に来てはや四十年に近し。近頃歯もことごとく落ちて、歌の声洩れがちなれど、島人馴れぬ太夫を厭(いと)いて、芝居のあるごとに今もこの翁をのみ招くとか。

    明くれば山僧案内して島の内を見あるきぬ。島は大小二つの山より成り、東にありて伊良湖に面するもの、西の山よりもはるかに高し。この頂より望めば、正南(まみなみ)には安乗崎、大王の鼻は突き出して、それより遠(おち)になお海見ゆ。安乗より此方には国崎、皆志州の地なり。その他は忘れたり。島は数えも尽しがたし。北に向えば知多郡の師崎は正面に、左は野間の崎、海を隔てて伊勢の国に、山の名里の名、限りもなく聞きたけれど、今は面影も朧なり。知多より東に些し離れて、三河の幡豆の崎、左に一色、右には蒲郡、共にかつて聞きし名なり。群山の中に一つ禿げたるが眼に着くを、あれは赤阪の駅のあたりなり。かの南を汽車は行くと、聞くさえも夢のようなりき。

 

    神島の二つの山は相結びて、南北に谿を作る。北の平地は隘く、南なるは寛(ひろら)かなるに、なお里人が北にのみ集りて住めるは、遠浅の舟の上下に便なると、大洋の風を厭うがためなるべし。南の浜へ行くには細き径あり。径の両側に山の雫を堰き溜めて、わずかなる稲を植えたり。山畑には麦も作るといえど、これを合わせて島人二月の糧に足らず。その余は知多郡より運ぶなるべし。

 

    山の南に下れば荒野なり。風勁くして草も栄えず。波哮(たけ)り砂飛びて、その凄まじさ久しくあるに堪えず。海に近く幽(かすか)なる樾(こむら)あるを、立ち寄りて見れば小さき墓二つ三つ並び立てり。昔より海に死したる人の、この浜に漂着するものあれば、皆此処に葬るが習いにて、たまたま身寄りの者の弔い来て、墓標を設けて帰らんというあれば、また此処に建てさす。一つの碑(いしぶみ)の背に紀伊国という文字の、辛うじて認め得るもあり。死して後までなお旅なるこれ等の人の上に比ぶれば、命ある間の心細さは屑(もののかず)ならずなど独思いぬ。

 

    峯を伝いて行けば、東の山の近く大いなる石窟(いわや)あり、岩角を蹙(ふ)みて探り入れば、深さ数十間、海水下に通いて怪しき楽の音を作(な)す。五月海気蒸す頃は、この石窟に奇しき花開くと、昔より言い伝う。形は牡丹のごとく、径(わたり)尺余にして白し。好事なる名古屋人などの、年々舟に酒を載せて、遥かに見に来るもありとか。あるいは苔の類なりという者もあれど、見ねばことに床し。都に思う人などありて、旅の日記見せにやらんとき、

        神島の巌も花は咲くものを君が心よ春としも無き

と興ずるもまた面白からん。岩屋の東は伊良湖より見ゆる絶崖なり。鵜の鳥夥多(あまた)絶えず集り来て、浪と白きを争うさまなり。海士の子その糞を採りて、伊勢尾張の農夫に販(ひさ)ぐ。石灰もまたこの島の産物の一つなり。岩の花咲く窟の辺より、西も東も一島すべてこの石にて、海の幸乏しき頃は、島人これを切り出して生計(なりわい)とす。熱田のセメント会社は、十年の間を約して一手に買い入るる由にて、すでに若干の前金をも受け取りぬなど噂せしが、今はいかにしけん。やがては島もなくなるべしと思われて心細きを、さしも顧みぬ島人の、終日(ひねもす)戛々(かつかつ)と石割る音、今なおその海に響くらんか。

 

    海の風涼しき磯に坐し、往来する蜑人(あまびと)を呼び留めて、山の名、船の行方を問い、またその老いたる父と語るほどに、黄昏は沖より催し来て、日は落ち雲の色は暗くなりぬ。夕暮は浦に住む者のもっとも悲しむ時なり。今日こそ若者ども、皆祭のために帰りて家にあれど、汐路遠く舟出して、風も浪もさらにその音信(たより)を伝えぬ日には、海の果てのみ眺められて侘しきに、昔もかかる折にや歌い初(そ)めし、節哀れなる鄙歌(ひなうた)の伝わりて、遊子の夕を寒からしむるものも多し。人々が海の桛(かせぎ)に出たる時、島に残りて女子供を問い慰め、または万一の災あるときは、寄り合いてそれぞれの処置を定むるために、老功の人を選びてこれを村隠居という。御寺、村長の次に尊まるるはこの人々なり。我にさまざまの物語聴かせしは、多くはこれ等の村隠居なりき。

 

    この夜は水無月の望なれば、その名も由ある桂光院の庭にして、清き影を仰がんと思いしに、生憎に雲多く、初夜より風吹き立ち、海いたく荒れたれば、念を絶って寝たり。明方雨となりて、嵐は大いに鎮まりたるに、この間に帰り玉えと、主僧強(あなが)ちに我を喚び覚す。周章(あわただ)しく岸に下れば、帆の音はたはたと早漕ぎ離れたる船もあり。物陰のまだ暗きに、送り出でたる人なるべし、誰とも知れず彼処(かしこ)此処に立てり。再び来べき島にもあらず、と思えば胸迫りて、船の底に伏しぬ。松の声の私語(ささやき)のようなりしも遠ざかれば、渡合の波の穂の仄々(ほのぼの)と、舟路は東雲になりぬる、忘れがたき風情なりき。