ごようすい
<基本データ>
名称 御用水
別称 辻村用水
種別 用水路・上水道
形態 埋立て
延長 約3.7km(最終的な流路)
流域 北区・中区(〃)
慶長15(1610)年、清州越しによって熱田台地の北西の端に名古屋城が築城された。城の北側は湿地帯になっており、外堀の水も自然の湧き水や付近の流水によって満たしていた。しかし台地上が城下町として開発されたことが原因となったのだろう、約半世紀が経過する頃には湧水量が減少してきた。一方、名古屋城の西側に位置し、人家が増えてきていた幅下(現在の西区)方面では、飲料水の確保に苦慮していた。一帯は、海水の干満で井戸水位が上下したというような低湿地帯だった。
こうしたことから寛文3(1663)年、名古屋城外堀の水量並びに幅下方面への飲料水を確保するため、庄内川に水源を求めて、新たな水路が開削された。この水路がすなわち御用水である。
御用水は、龍泉寺近くの川村(現在の守山区川上町)にて庄内川から取水され、西流して瀬古村(現在の守山区瀬古)から辻村(現在の北区辻町)にかけて矢田川の下を伏越(ふせこし)と呼ばれる暗渠でくぐり抜け、そこから南西方向に一直線に流れていた。名古屋城外堀へは、現在の名城公園南交差点付近にあたる北東の角から流れ込んでいた。その流入口が今も残っている。御用水の構造物としては唯一の遺構であり、大変貴重な存在だ。
開削当初、矢田川を越える地点では、庄内川からの水を一旦矢田川に流し入れ、再び取水する方法を取っていた。しかし矢田川は流砂が多く、それが御用水にも流れ込むため、次第に堆積し水が流れにくくなった。水路を掘り替えるなどしたものの維持管理が難しく、延宝4(1676)年に矢田川の下をくぐる伏越が造られた。これにより矢田川からの流入はなくなり、川村で取水した庄内川の水だけが御用水を流れるようになった。伏越は木製で、腐朽するごとに何度も造り替えられたという。
御用水の両岸は松並木になっていた。これは、日陰をつくることで飲料水にも使用する水の温度が上がらないようにするためと言われていた一方、名古屋城が落城したときに、殿様がここを通って定光寺方面へ逃げて行くのを目立たないようにするために造られたという説もある。江戸時代には用水の土手を通行することは禁止するという高札が建てられていた。御用水の松並木は太平洋戦争の末期、飛行機の燃料となる松根油をとるために多くが伐採されたという。今は黒川上流の夫婦橋近くに2本だけ大きい松が残っていて、これが唯一名残をとどめている。
御用水の完成により、お堀には常時きれいな水が流れ込むようになった。また、御用水の水は幅下方面への水道水としても使用されるため、経路の途中で交差する八ヶ村悪水(古川, 五ヶ村悪水)や大幸川といった悪水路は樋で上を越え立体交差することで、排水が混ざらないような構造になっていた。
下の図は瀬古村、現在の守山区瀬古を描いた天保12(1841)年7月の絵図に加筆したものである。赤で示した御用水の水路が青で示した八ヶ村悪水と立体交差している様が見て取れる。この時期、取水地点である川村から瀬古までの御用水は庄内用水の上流部を兼ねていた。図中で双方は二手に分かれ、御用水は矢田川を伏越して名古屋城へ、庄内用水は西流し川中三郷を経て稲生へと至る。立体交差して北側に回った八ヶ村悪水は、分水地点の下流側で庄内用水に流れ込むことで、御用水への排水の流入を回避していた。
名古屋城外堀では、その水位を一定に保ち、余分な水を排するため、外堀の南西に「辰之口」と呼ばれる水路が造られた。尾張藩二代藩主徳川光友が撰した『御定事』に「御構惣掘へ水漫々と堪へさせ国中の用水と成余は龍の口と云日本一の水吐へ流す」とある。また、現地の説明板には以下のように書かれている。
辰之口水道大樋
この樋は巾下御門枡形の北にあり樋の両側は石で組まれ底は南蛮たたきでできていた。
東の口に立切(水止め)があり、これは、外堀の水位を一定に保つためであった。
又西の端は切石の銚子口があり常に滝となり大幸川(現在の掘川)に落ちていた。
この辰之口の一部が、今もそのまま残されている。水路の両側にある護岸の石積みや水路を跨ぐ石橋は江戸時代そのままのものだろう。「南蛮たたき」で出来ていたという底は、土が堆積しており直接目にすることが出来ないのが残念だ。歩道の一部になっている石橋の他に、車道の下にも石橋の橋脚や床板が確認できる。しかし橋の下には土嚢が積まれており、その先は埋め立てられている。水路の遺構が残るのは堀から車道までの短い区間のみだ。
当初の辰之口は途中で南に折れ曲がり、堀川の堀留までを繋ぐ比較的長い水路だった。その後、堀留に接続する新しい大幸川が開削されると、辰之口の水路はその左岸へ流れ落ちるようになった。
現在では水こそ流れていないものの、先述したように往時を偲ぶに足る遺構が残っている。また、道路を挟んで反対側には屋根神が鎮座している。これは辰之口の水路跡を利用して建立したものと思われ、その奥には細長い敷地が続いていて名残がある。一方、かつての大幸川にあたる黒川(正式には堀川)の護岸には、なんの痕跡も残されていない。
名古屋城外堀の西端からはまた、巾下水道が取水され、西水主町(現在の中村区名駅南)のあたりまでの低地に広がる市街地一帯に広く生活用水を供給した。水道は地中に埋めた木や竹の筒で配水され、分岐するところに枡が設けられていた。『金城温古録』には「加齢延年の仙水也、宇治茶によろしと云。」とあり、澄んだ水だったことがうかがえる。
大幸川は庄内用水東井筋(江川)に流入していたため、沿川の排水とともに、寛保2(1742)年からは川村で取水した水を庄内用水に送るルートとしても使われていた。しかし、流入先の東井筋(江川)は排水能力が低く沿川ではたびたび水害が発生していたため、天明4(1784)年に大幸川は庄内用水から切り離されることになった。川は新たに開削された水路で堀川に接続され、これが黒川の元になった。
大幸川の付け替えにより東井筋での水害は減ったものの、庄内用水では大幸川からの流入がなくなったため、逆に水量が不足するようになった。
そのため寛政4(1792)年より、川村で取水していた御用水の水路を巾5間(9.1m)に拡幅し、御用水と庄内用水を併せて送水するようにした。当時の庄内用水は矢田川を越える手前の瀬古村(現在の守山区瀬古)で分水され、西へ流れていた。
図中の西へ流れる庄内用水の流路は後の三郷悪水上流部にあたるもので、明治10(1877)年に黒川が開削されるまでは、このルートを流れていた。
明治10(1877)年に黒川が開削され、御用水はその流路を大きく変えた。取水地点は庄内用水とともに瀬古村の元杁樋門に改められ、真っ直ぐ開削された新たな水路を流れて矢田川伏越に至る。この伏越は寛文3(1663)年の御用水開削当初からの伏越と全く同じ位置に造られた。
これによって、従来の川村から瀬古に至る御用水開削以来の上流部は、お役御免となった。残された水路は、流域を灌漑するための農業用水路として残し置かれ、同じく川村で取水していた六ヶ村用水(郷合川)と杁を統一して、新たに「八ヶ村用水」として生まれ変わった。
矢田川伏越の南側には枡形と分水池が設けられた。分水地からは、御用水に加えて、三間樋を通じて庄内用水に、黒川樋門を通じて黒川(堀川)に、そのほか志賀用水、上飯田用水にも分配されていた。この池は、明治43(1910)年7月から翌44(1911)年5月にかけての伏越の改修で桝形が撤去されたことで広くなり、いつしか「天然プール」と呼ばれるようになった。面積は2200平方メートルあった。
天然プールは絶好の水泳場として、たくさんの子供達が集い遊ぶ場所になった。伏越や樋門などの施設を使って遊ぶのは、流れが速くて結構スリルがあったようで、とても楽しそうだ。しかし三間樋では、何人もの子が下を潜り損ねて亡くなっている。天然プールは昭和52(1977)年の三階橋ポンプ所の建設によって姿を消した。しかし、そういう子らを弔うために建立されたお地蔵様は、今も現地で供養されている。
明治時代以降、北区を中心に繊維産業や染色業が発展した。これらの産業にはきれいな水がたくさん必要となる。御用水からも工場へと水が引き込まれ、名古屋友禅などの見事な染物が作られたのだ。また、並行する黒川では染物を水面にならべ、糊落としをする光景もよく見られたという。下の写真は現地の案内板で、当時撮影された写真も掲載されていた。
昭和30(1950~60)年代になると、御用水においても徐々に水質が悪化が目立つようになってきた。その後、昭和47(1972)年には埋め立てが始まり、夫婦橋から猿投橋までの約1.7㎞が「御用水跡街園」として黒川ぞいの散歩路に生まれ変わった。昭和49(1974)年に完成した散歩路の敷石は、当時市内で続々と廃線になっていた市電のものを再利用したのだという。
御用水が埋め立てられ、街園になってから早半世紀。かつての松並木は桜並木に姿を変え、そこを流れゆくのは水ではなく大勢の人々である。御用水跡街園がこれからも永く緑多き水辺の散策路として多くの人に親しまれ、また歴史の語り部として大いにその役割を果たし続けていくれることを願っている。
作成 2020/03/08
更新 2021/04/02、2022/02/06、2022/02/24
参考文献
金城温古録
御用水江之事條
庄内用水元樋及矢田川伏越樋改築記念
タウンリバー庄内用水
八ヶ村用水由来碑