おおえすじ/にしえすじ
<基本データ>
名称 大江筋・西江筋
形態 開渠(一部暗渠)
延長 大江筋:3.8km
西江筋:4.7km
流域 名古屋市北区・西区・中村区
<くわしく>
庄内用水の本流の一部である。守山区瀬古で庄内川より取水した庄内用水は、黒川とともに矢田川を伏越する。矢田川の南にはかつて天然プールと呼ばれた分水池があり、現在は三階橋ポンプ所になっているものの、庄内用水と黒川は今も変わらず同じ場所で分水されている。
大江筋とはこの庄内用水の最上流から東井筋(江川)を分ける地点までを謂い、そこから下流を西江筋と謂う。西江筋は中村区日比津町に至って中井筋と稲葉地井筋(西井筋)に分かれる地点(日比津分水地)まで続く。他の井筋の名称に比べ、大江筋・西江筋という名前の知名度は圧倒的に低いだろう。なぜなら、この2つの井筋は単に「庄内用水」と呼ばれることがほとんどだからだ。いわば庄内用水の本流であり、別に名前をつけて呼ばなくとも特に問題がないからだろう。東井筋(江川)や米野井筋がなくなった今、庄内用水といわれて市民が思い浮かべるのは、多くはこの大江筋・西江筋の区間だろうと思う。また、庄内用水は「惣兵衛川」と呼ばれることもあるが、この名前は、大江筋・西江筋・中井筋の一連の流れのみを指している。
大江筋・西江筋は下流部の中井筋や稲葉地井筋(西井筋)とは異なり、ほとんどの区間が開渠である。しかし開渠といっても色々で、水路上に張り出す形で歩道が整備されて桜並木がある場所もあれば、ほとんど手付かずで耕地整理・区画整理の以後の庄内用水の原形を保っているところもある。
整備が進んだ区間では、橋の前後が短い暗渠となっていて、その上に四阿や小公園が乗っているというパターンがよくある。これらは、用水沿いの歩道も含めて「庄内用水緑道」という名前があり、用水の"身近な水辺"としての価値が見直された結果、昭和58(1983)年から整備が進められているものだ。昭和62(1987)年には建設省の「手づくり郷土賞 水辺の風物詩」のひとつに選ばれた。
「庄内用水緑道」が全ての区間で整備されていないのは民有水路区間があるためだ。西区内のある区間では、約1.8kmで地権者が数百人にもおよぶという。そうした場所では、所々に水路に降りる階段が残っているが、これは用水が灌漑の他に、出荷する野菜や泥のついた農具の水洗いなどに使用されていた名残である。
「大江」という名前がどこから来たものなのかは分からない。近くにそういう地名があるわけでもない。ただ、大江筋の少し南を流れていた悪水路に大江川というのがあったから、何か関係があるかもしれない。この悪水路は、他に大幸枝井筋と呼ばれることもある。大江川というと南区の川を思い浮かべがちだが、それとは全くの別物だ。
大江筋は途中、三郷悪水と平面交差していた。平面交差ということはつまり、一旦合流してすぐまた分かれるということ。三郷悪水の上流部はかつて庄内用水の本流として使用されていた歴史があり、ここはひとつの重要な結節点のような場所だ。三郷悪水は暗渠化され下水幹線になっているので、おそらく現在は特に接続などはしていないと思われるが、詳細は分からない。三郷悪水の跡は道路になっており、大江筋もかつて平面交差していた部分だけ道路の下を暗渠で流れている。中の構造をうかがい知ることは不可能だ。
東井筋(江川)の分水地点跡にはもはやなんの痕跡もなく、大江筋と西江筋は完全に一体の水路となっている。左へまっすぐ続いてゆく道が東井筋(江川)の跡である。ここより下流が西江筋ということになる。
庄内通をくぐる前後の区間は少し長めの暗渠となっている。庄内通に架かっていた橋の名前は「地蔵橋」であり、その親柱は全て現地で保存されている。橋の名はすぐ脇にある地蔵大菩薩に由来する。橋の袂にはかつて「地蔵前杁」があり、水を分けていた。この杁で取水された水は名塚村、新福寺村などを経由して下流部で古川へと繋がっていた。
西区の児玉浄水場では、西江筋から工業用水を取り入れている。その取水口が西区東岸町にあり、西江筋には4連の水門が設置されている。また、前後の区間には美しい石積みの護岸が残っている。
名古屋市上下水道局では、工業用水として庄内川表流水1.157m3/sの水利権を有しており、庄内用水を介して庄内川の水を取水しているという形だ。供給範囲は北区および西区である。
西区枇杷島を中心とする西江筋右岸側の一帯は枇杷島耕地整理組合によって耕地整理が行われたエリアである。ここでは、東西方向に道路と水路が交互に設置されており、それらの水路はすべて東の端で西江筋に接続していた。つまり、ある地点にひとつ分水を設けてそこからさらに水路が分かれていたのではなくて、すべての水路が西江筋から直接取水する仕組みになっていたようだ。
だから西江筋の右岸には一定間隔ごとにたくさんの分水があった。その内、いくつかの痕跡が今も西江筋の護岸に残っている。また、分水の痕跡の先に視線を移すと、家々の裏手に水路の跡が確認できる場所も多い。
西江筋は枇杷島公園の下を暗渠でくぐり抜けている。ここの暗渠は意外と古く、その歴史は「枇杷島市場」が開業した昭和30(1955)年1月まで遡る。
市場の前身は「下小田井の市」として現在の清須市西枇杷島町に開かれた枇杷島青物市場であり、かつては江戸神田・大坂天満とも並ぶ日本三大市場と称せられた。それを継承する名古屋圏の青果物の物流拠点として開かれたのが「枇杷島市場」だった。西江筋は開設当初は開渠のままで市場内を通過していたが、後に暗渠化され、市場の建物はその上にまたがるように建っていた。枇杷島公園はその跡地である。
西江筋は名鉄、JRと鉄道をくぐり、中村区内へと入る。JR東海道線に架かる鉄橋は「惣兵衛川橋りょう」という名前だ。鉄橋は中央に橋脚を設けており、上流より向かって左側が庄内用水の暗渠、右側が埋め立てられた古川の跡である。当初はいずれも開渠で存在しており人や車の通行を想定したものではなかった。しかしその需要があったと見えて、第二次世界大戦の頃、鉄橋直下と前後区間の庄内用水に蓋がかけられて暗渠になった。この暗渠は安全性に問題があったようで、平成25(2013)年頃に通行止めとなり、改修工事が行われている。
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枇杷島公園から中村区塩池町に至るまで、西江筋は小さな蛇行を繰り返している。また現地に行くと、西江筋に沿ってかなり土地が高まっているのが分かる。用水路は水田に水を送るという性質上、周囲よりも高い位置を流れることが多い。庄内用水でも、微高地や庄内川の古堤などを活用して、その高さを維持していた。この区間はおおよそ庄内川の流れと並行しており、蛇行は古い堤防をそのまま活用したために生まれたものと考えられる。
区画整理前の流路を明治31年の国土地理院地図で確認すると、さらに下流の日比津分水地の辺りまで、細かい蛇行を繰り返していたことが分かる。区画整理で直線的に改修され、後に暗渠となって現在に至る。
作成 2021/04/08
参考 タウンリバー庄内用水、名古屋市工業用水道事業の紹介、庄内用水実測図
資料 稲生耕地整理組合地区確定図:名古屋市市政資料館 蔵
「枇杷島市場」航空写真:名古屋市都市計画情報提供サービスより
「惣兵衛川橋りょう」航空写真:地理院地図より