短くなっていた!堀川

堀川は慶長15(1610)年の名古屋城築城に際して掘られた排水路に起源をもつ人工の河川である。一級河川として登録されている現在の堀川は、法律的には、庄内川の取水口から名古屋港で伊勢湾に注ぐ地点までを指す。しかし、一般的に上流部は「黒川」と呼ばれることが多い。地下鉄名城線には黒川駅があるし、名古屋高速にも黒川インターチェンジがある。(東京の池尻大橋に敵する所だと思っている)

名古屋の中心部を流れる堀川
名古屋の中心部を流れる堀川
黒川とぐるぐる黒川IC
黒川とぐるぐる黒川IC

 

上流と下流とで呼び名が違うのは、成立の時期を異にしているからだ。では、黒川と堀川の境目はどこにあるのだろうか。それは歴史的経緯からみて、現在の朝日橋が架かっている地点とするのが順当だろう。

 

開削当初の堀川は、現在とは違い水源を持たない単なる運河だった。その上流端、つまり堀留があったとされるのが朝日橋の地点である。

例えば『中区誌(区制施行百周年記念)』には、「開削当初の堀川は熱田の宮から、名古屋城西側、現在の朝日橋付近までの区間が掘られた」とある。

また朝日橋の袂に建立された「堀川堀留跡の碑」には以下のようにある。

堀川は慶長15(1610)年城下と熱田の浜を結ぶ輸送路として福島正則によって開削されたと伝えられている。当時は名古屋城近くのこの地で堀留になっていたが、天明4(1784)年に行われた大幸川の付け替え、明治10(1877)年の黒川治愿による黒川の開削、さらに昭和初期の改修を経て現在の姿になった。

 

堀川の主な役割には、船を使った物資の運搬や城下町の排水が挙げられる。しかし『堀川 歴史と文化の探索』(以下、『堀川』)によると、最初期の目的は名古屋城築城の工事を行うための排水にあった。同書では、築城予定地から湧き水や雨水を海へ落とすためには、後の堀川にあたる排水路を開削する他に手段がなかったことが詳しく考察されている。

 

そういう開削経緯を持つから、堀川の堀留は名古屋城の近くに位置していた。その後、天明4(1784)年の大幸川接続によって堀留は川の上流端ではなくなり、明治10(1877)年の黒川開削によって現在の形になった。つまり、通称として堀川と呼んでいるのは慶長15(1610)年に完成した区間、黒川と呼んでいるのは天明4(1784)年および明治10(1877)年に後から出来た区間ということなのだ。

 

かつて堀留があったの朝日橋に立つと、上流側と下流側で川幅が違っており、確かにこの場所で堀川が終わっていたんだという面影を今も感じることができる。

朝日橋より下流を眺める
朝日橋より下流を眺める
朝日橋より上流を眺める
朝日橋より上流を眺める

 

しかし!

 

 

私は異議を唱えたい。朝日橋の地点に堀留はなかった、と。いやそれだと嘘になる。

正確には、

 

慶長15(1610)年の開削当初の堀留はもっと北にあり、今の朝日橋は堀留ではなかった

 

と。歴史上、堀川の堀留は2か所あった。そして堀留が朝日橋に移った時、堀川史上においてたった一度だけ、その全長が短くなっていたのだ。このことは管見の限りどの本にも書かれていないし、「堀川堀留跡の碑」の碑文からもそうとは読み取れまい。堀川については、庄内用水などと比べ物にならないほど多くの方が研究されていると思うし、書籍もたくさん出ている。それなのに、この点がすっかり見落とされてきたとすれば不思議なことだ。もっとも私の読書が足りないだけかもしれない。そうであれば申し訳ないが、しかし一般的には普及していない歴史であると言わざるを得ない。何を隠そう私も今まで全く知らなかったのだから。


”慶長15(1610)年の開削当初の堀留はもっと北にあり、今の朝日橋は堀留ではなかった”ことを示しているのは、『名古屋市史 地理編』(以下、『市史』)と『堀川』の記述、および「正保四年名古屋城絵図」の3つの資料だ。

 

まず、『市史』の御用水の条にこのように書かれている。

堀川の堀詰へは巾下より常に塵芥を捨てて、夏はその臭気甚しかりしかば、万治3年秋、堀底へ松木などを入れ、2町餘下にて土を埋め下げ、元の如く石の水道を伏せ、堀川に満潮の時は水を上げ、干潮の時は水を落とす様になりたり。

      

次に、『堀川』には、以下のようにある。

開削時の堀川は今の朝日橋の所で堀留になっていた。お堀と堀留までの排水路は埋め戻すことになるが、戦争の時に敵が掘り返すとお堀の水は簡単に抜けてしまう。このため掘りにくいようにさまざまな物が埋め込まれた。天明4年(1784)に大幸川を堀川へ接続する事業が行われたが「巾下御門御馬出し西之方を掘候節は、大木・大石、其外、様々の物、地中より掘出」と書かれている。」(引用がなされているが出典は分からない)

 

万治3年は西暦にすると1660年であり、慶長15(1610)年の開削から半世紀が経っている。『市史』の記述は、万治3(1660)年になって「堀底へ松木などを入れ、2町餘下にて土を埋め下げ」たと言っているのだ。先述した通り、堀川の当初の目的は名古屋城築城の際の排水にあったので、当然その水路は名古屋城の外堀まで接続されていた。『堀川』では、外堀から朝日橋までの区間について「お堀と堀留までの排水路は埋め戻すことになる」と言っている。「開削時の堀川は今の朝日橋の所で堀留になっていた」とあるから、埋め戻しの時期は名古屋城が完成してすぐの時点を想定しているだろう。ただし時期を明記しているわけではない。その時期について明示しているのが『市史』で、埋め戻しは万治3(1660)年秋だったと分かった。半世紀が経っていれば、それはもはや「開削時」とは言えないのではないか。埋め戻される前の堀留が朝日橋より上流にあり、それが当初の堀留だったと言った方が正確だろう。つまり堀留は史上2つあったのである。

 

『市史』では「堀底へ松木などを入れ、2町餘下にて土を埋め下げ」たとあり、『堀川』に引用された記録には大幸川開削の際に「大木・大石、其外、様々の物、地中より掘出」したとある。同じ物に対して、入れた際の記録と掘り起こした際の記録が両方とも残っているとは面白い。万治3(1660)年秋の埋め戻しの際に堀底へ入れられた松木などが、124年後、天明4(1784)年の大幸川開削に際して発掘されたのである。

堀底へ松木などを入れ」た目的について、『堀川』では「戦争の時に敵が掘り返すとお堀の水は簡単に抜けてしまう。このため掘りにくいようにさまざまな物が埋め込まれた」としている。しかしこれは名古屋城完成後すぐの埋め戻しを想定した考察であるから、その時期が万治3(1660)年秋だとすれば馴染まないように思う。なぜなら築城から半世紀もの間、その場所は川のまま残されていたのだから。

『市史』には「堀川の堀詰へは巾下より常に塵芥を捨てて、夏はその臭気甚しかりしかば」とあり、埋め戻しは軍事上の理由ではなく、”臭かったから”という謎の理由によるものだった。第一印象としては、そもそも御城の目の前で川に塵芥を捨てるな!と言いたい。夏場に臭って仕方ないので、臭いものにはフタをしろ!!ってな調子で埋めたのだろうか。そんな理由だけで堀川が埋め立てらるものだろうか。悪臭だけが理由でしょうか、会えなくなるねと松木を入れて…。まあでもとにかく、埋め戻されていたことは事実のようだ。


さて、では万治3(1660)年秋に埋め戻されるまでの、当初の堀留はどこにあったのだろうか。

『市史』には「2町餘下にて土を埋め下げ」たとある。2町はメートル法に換算すると218mくらいだから、この文章から推測するなら、朝日橋から218mくらい上流に堀留があったことになる。

 

文章だけでなく、絵図からもアプローチしてみよう。万治3(1660)年までに描かれた絵図を探すと、徳川美術館所蔵「正保四年名古屋城絵図」が見つかった。転載できないので、リンク先に飛んでぜひご覧になってほしいが、もちろん注目すべきは堀川堀留の位置である。

もう一図、埋め戻し後に描かれた地図と比べることで、本当に堀川が短くなっているのか確かめてみたい。名古屋城下を描いた地図はいろいろあるので、どれでもいいのだけど、愛知県図書館所蔵「享保十四酉年名護屋絵図」を紹介したい。これも同様、リンク先に飛んでぜひご覧になってほしい。

正保4年は西暦1647年、享保14年は西暦1729年にあたる。当該部分の水涯線と道路縁のみをトレースしたのが以下の図である。名古屋城外堀や道路との位置関係からして、堀留が南に移っているのは明らかであろう。

堀川は短くなっていた!
堀川は短くなっていた!

 

「正保四年名古屋城絵図」において、堀川の堀留から西北西の方向に延びる道が描かれている。これは美濃路で、今もそのまま残っている道だ。堀留は美濃路のすぐ南側に設けられている。現代の地図に当てはめると、だいたい大幸橋の辺りであるということが分かる。

 

大幸橋から後に堀留が設けられた朝日橋の南側までは144mしかない。『市史』にある「2町餘下」=218mとは大きく異なるが、ここでは絵図の方を信じればいいだろう。


まとめると、当初、堀川の堀留は大幸橋の辺りに設けられていたが、万治3(1660)年秋にその先端140mほどが埋め戻され、「堀川堀留跡の碑」がある朝日橋の南側に移った。その後、天明4(1784)年に大幸川が開削され、朝日橋~大幸川の水路が再び開削された。ということだ。

 

大幸橋の辺りに堀留があったことの痕跡はなにも残されていない、ようにも思ったが、地図を見ていてもしやと思った。朝日橋~大幸橋の間のみ、黒川左岸に並行道路が設けられているのだ。大幸橋より上流にはないし、朝日橋より下流は川幅が広がって水面になっている。あたかも、川幅が狭まった部分に道路が通っているように見える。この場所が公有地となっていることが即ち、かつて堀川敷だったことの名残なのではないかと考える。