川村取水の不可解[庄内用水疑問抄]

②大幸川経由、庄内用水行き

(追記・重要)

本稿は執筆時点での筆者の仮説を示したものだったが、後日『尾張徇行記』の記述を見つけ、誤りであることが分かった。そのため、文中の当該部分および文末にて、『尾張徇行記』の記述を踏まえた追記・訂正を行った。


 

庄内用水は、寛保2(1742)年3月~天明4(1784)年の間、川村(現在の守山区)で取水を行っていた。川村に杁を移したのは、「稲生村の杁に砂が溜まり、水路にも砂が流れ込んで水が流れにくくなった」(名古屋歴史ワンダーランド)のが理由である。

 

新たな送水のルートは「川村で取水して、瀬古村と山田村の間の矢田川を伏越で越し、新たに開削した水路で大幸川へ流入させ、稲生村で従来の庄内用水に接続」(タウンリバー庄内用水)するもの。大幸川は熱田台地の北側を流れていた自然河川で、庄内用水東井筋(江川)に流入していた。新規に水路を開削し、それを大幸川に繋げることで、大幸川を間借りして送水しちゃおうという魂胆だ。

この際、従来の稲生村の杁は「川村よりくる水にて不足のときはこの杁より助水を通」(守山市史)ずるために残し置かれた。名古屋歴史ワンダーランドによれば、3つ中の1つが残されたという。

 

 

下の地図は、川村で取水し大幸川を経て東井筋に流入するという、寛保2(1742)年3月~天明4(1784)年の間の庄内用水の流路の概略を示したものである。左上の稲生で取水され二手に分かれている赤線の内、西側が西江筋である。この下流に米野井筋・中井筋・稲葉地井筋が続いていた。なお、川村から矢田川伏越を経て大幸川に合流するまでの区間は、具体的な水路の位置について不明な箇所があることから、敢えて直線的に描写したものであって、実際に私がこの位置に当時の庄内用水の流路を比定しているわけではなく、またこの位置に庄内用水が流れていたという史実もないため、注意されたい。

川村で取水し、大幸川を経て東井筋に流れ込むルートの概略図
川村で取水し、大幸川を経て東井筋に流れ込むルートの概略図

 

しかし、このルートには不可解な点が2つある。それは、川村で取水した用水が

〈1〉大幸川の本流を通って東井筋(江川)に流入していた場合、西江筋以下、米野井筋・中井筋・稲葉地井筋への送水が(そのままでは)不可能である

という点。これは、東井筋への大幸川流入地点と、西江筋の流路との位置関係から、断言できることだ。

 

そして、〈1〉の欠点を克服するためには、東井筋の大幸川流入地点から西江筋までを繋ぐ、バイパス的役割の新たな水路を開削することが考えられるが、

〈2〉東井筋の大幸川流入地点から西江筋までを繋ぐ水路(以下、バイパス水路と称す)が開削された記録や、存在していた痕跡がない

という点。ただし、『タウンリバー庄内用水』に掲載されている流路図は、明らかにバイパス水路の存在を想定して描かれたものだ。何か根拠があったのかもしれないが、分からない。少なくとも私の管見の限りでは、このバイパス水路が存在した根拠となる資料はない。『タウンリバー庄内用水』は数少ない貴重な情報源の一つとして使っていたから、私もかつてはこれに倣った流路図を描いていた。それは今考えれば、〈1〉の不可解さを回避するために、納得できないまま描いたものだった。

 

(訂正)

文政5(1822)年の『尾張徇行記』稲生村の項に以下の記述があった。

「西井筋先年は児玉村北にて山田より通する前の川村井筋此西井筋へ通せしか明和五子年稲生村に杁一腹増し新規掘割出来しけれどもあしき故右の杁はつぶれ今は三郷の方より河村用水を通するやうになる」

この文章では、「児玉村北にて山田より通する前の川村井筋此西井筋へ通せし」と、つまり東井筋の大幸川流入地点から西江筋までを繋ぐ水路(バイパス水路)が存在していたことを明示していると言える。よって「バイパス水路が存在した根拠となる資料はない」とする管見は否定された。

『タウンリバー庄内用水』より
『タウンリバー庄内用水』より
バイパス水路がなければ、西江筋への送水は不可能
バイパス水路がなければ、西江筋への送水は不可能

 

〈1〉の問題点を抱え、さらにそれを解決しうる〈2〉が存在していなかった場合に、西江筋以下、米野井筋・中井筋・稲葉地井筋の水源となっていたのは何か。それは残し置かれた稲生杁しかない、と考えて、庄内用水のページには以下のように書いた。

 

稲生村の杁が残されたのはその通りだとして、しかし下の地図でも分かるように、大幸川を経て東井筋に流れ込んでいた川村の水は、東井筋以外の各井筋へは流れ込みようがないのである。この辺りは未だ不明な点が多いが、大幸川合流点以南の東井筋と西江筋(米野井筋や中井筋、稲葉地井筋の上流にあたる)とをバイパスするような水路が存在していない限りは、稲生村の杁は西江筋方面へ水を供給するために必然的に残された、という可能性もある。

 

つまり、私が考えたのは、”川村からの水が入らないのなら、稲生杁は必要不可欠で、それって「渇水時の予備」ではないのでは?”ということであった。しかし「未だ不明な点が多い」というのが本音であって、それが本稿でテーマに掲げた”不可解”に繋がった。


 

 

さて、ここまでじっくり読んでくれた方がいれば大変申し訳ないのであるが、実はこの文章はもっとも肝要で、この不可解を抜本的に解決し得る重大な事実を、スルーしたまま書いてきた。それは、ここに至る思考の過程を一応記しておこうと思ったから。ここからが、現時点での私の認識になる。

 

 

重大な事実。それは、名古屋歴史ワンダーランド「庄内用水年表」の寛文7(1667)年の項に書かれたこの一文である。

稲生村の2か所の取水口の内、下の取水口を廃止し、名塚村に移設。これにより、庄内用水の取水口は、稲生村と名塚村の2口となる

 

稲生村に2か所あったという杁の来歴を追ってみる。ここでは、先日のブログ「稲生杁と日比津杁 [庄内用水疑問抄]」で庄内用水初期の流路変遷について提示した【新説2】(定説とは異なる)に則ることとする。

元亀・天正年間、庄内用水が開削される。東井筋を取水する稲生杁と、米野井筋・中井筋・稲葉地井筋を取水する日比津杁が造られる。その後、正保4(1647)年に日比津杁が稲生村に移設された。近い地点で取水しつつも杁自体は統合されることなく、それぞれ独立したものだった。稲生村に2つの杁が同居する形となったのは、そのためである。(以上、来歴)

 

寛文7(1667)年、その稲生村の2つの杁の内、「下の杁」が名塚村に移設される。名塚村は稲生村の西隣にあった。つまり、移設したとは言っても、距離的にはそんなに離れていない。

下とは下流側のことであろう。位置関係からしてそれは”米野井筋・中井筋・稲葉地井筋を取水する杁”であり、つまり名塚杁は元を辿ると日比津杁であるということ。この時から、稲生杁で東井筋、名塚杁で西江筋以下、米野井筋・中井筋・稲葉地井筋を取水するという形態になった。

 

この時期の庄内用水を描いた絵図が残されている。蓬左文庫が所蔵する「尾張国図」だ。その水路部分のみを転写したのが以下の図。

「尾張国図」に描かれた庄内用水の2つの杁 (転写)
「尾張国図」に描かれた庄内用水の2つの杁 (転写)

作成年は不明である。しかし寛文3(1663)年に開削された御用水が描かれていることから、それ以降の作であろう。庄内用水の杁は、東井筋を取水する杁と米野井筋・中井筋・稲葉地井筋を取水する杁とが完全に分離独立しているのが分かる。これがどちらも稲生杁であるか、あるいは西側が名塚村に移った後のものであるかは判断がつかない。前者であれば寛文3(1663)年~寛文7(1667)年の間、後者であれば寛文7(1667)年~寛保2(1742)年3月の間に描かれたと言える。期間の長さからして、名塚杁・稲生杁として存在している時期(後者)を描いたものである可能性が高いと思われる。

 

 

さて、このことを前提に、寛保2(1742)年3月の川村への移動を考えてみる。冒頭でも書いた通り、川村に杁を移したのは「稲生村の杁に砂が溜まり、水路にも砂が流れ込んで水が流れにくくなった」(名古屋歴史ワンダーランド)のが理由だった。「稲生村の杁」に砂が溜まったのである。もうひとつの「名塚村の杁」は関係ない

『尾張徇行記』の川村の項には以下のようにある。

「稲生用水根元は、先年稲生村に9尺杁三腹ありしか、杁年々砂高になり井道へも砂駆埋、用水摸通さる故に、寛保2戌年川村に新規杁長12間巾9尺高5尺巾1間高4尺2腹伏、井道を立。矢田川守山と山田の間に伏越水筒長112間伏、それより大幸井筋へ落込、稲生井筋へ用水を通せり。」

やはり、「名塚村の杁」については全く触れられていない

 

つまるところ、私が言いたいのはこういうこと。

”川村へ移ったのは庄内用水の取水口ではない。庄内用水東井筋の取水口だった。”(のではないかな?)

(追記・訂正)

文政5(1822)年に書かれた『尾張徇行記』の「児玉村北にて山田より通する前の川村井筋此西井筋へ通せし」という記述から、川村で取水した水が西江筋以下、米野井筋・中井筋・稲葉地井筋にも流入していたことが明らかになった。だから、川村へ移ったのは「庄内用水東井筋の取水口」ではなく、やっぱり「庄内用水の取水口」だった。

 

寛文7(1667)年の段階で、”東井筋の稲生杁”と”米野井筋・中井筋・稲葉地井筋の名塚杁”は分かれていて、互いに干渉しない状態にあった。というか、日比津杁に関して【新説】が正しいとすれば、開削当初からまだ一度も、双方は水源を一にしたことがなかった。

(追記)

これは今回の『尾張徇行記』の記述とは関係ないので、そのままの認識である。

 

寛保2(1742)年に川村に移ったのは稲生杁であり、”米野井筋・中井筋・稲葉地井筋の名塚杁”とは、はっきり言ってしまえば無関係だった。そう考えれば、「西江筋以下、米野井筋・中井筋・稲葉地井筋への送水が(そのままでは)不可能」であっても、何の問題もない。「バイパス水路」の存在を仮定することも、発想がそもそも間違っていることになる。そして、稲生杁が残された理由が「渇水時の予備」であることにも、何ら違和感はなくなる。

(追記・訂正)

『尾張徇行記』の「児玉村北にて山田より通する前の川村井筋此西井筋へ通せし」という記述からも、稲生杁が「渇水時の予備」であることへの違和感は解消される。

本稿で主に述べた名塚杁について、川村付替え後どうなったのか、『尾張徇行記』に直接の記述はない。ただ、名塚村の項には「先年稲生村名塚村井元なりしか杁前砂高になりし故寛政三亥年□此井元替あり」とあり、稲生杁と同様、砂が溜まっていたことが窺える。


 

庄内用水が最初に川村に設けた杁、そしてそこから矢田川伏越を経て大幸川へ流入し東井筋(江川)へと送られた用水は、東井筋でのみ使われるものだったのではないか、という現時点での私の暫定的な理解をまとめた。川村から東井筋に至る流路については、何らこれまでの定説や考証を否定するものではない。引き続き、具体的位置の特定に努めたい。

 

しかし、西江筋と東井筋で杁がそれぞれ名塚村・稲生村に分かれており、その上で東井筋の水源が川村に移されたという趣旨の説明は、今までなされたことが無いのではないかと思われ、本稿にて提示された新たな視点だ。これをもって庄内用水のページの内容を変えてしまうのは時期尚早だろう。もう少し考えや、あるいは議論が深まり、正しいと確定できる状況になれば編集したい。

(追記・訂正)

この提示は『尾張徇行記』の記述からして、誤りであることが分かった。従って、「正しいと確定できる状況」には今後なり得ない。

 

私も現時点では完全にこれで納得できているわけではない。

例えば、『守山市史』には「寛保二戌年(1742)には、稲生定井(稲生用水)井高三万三千八百石余が川村定井に付け加えられた。」との記述がある。(『守山市史』発の情報ではないと思うので、ここからの引用は適切ではないかもしれないが、いま手元に偶々あったので使った。)

井高33,800石が「稲生用水」が灌漑する範囲での収穫量。これを仮に1石=1,000㎡として面積に無理やり換算してみると、3,380ヘクタールになる。庄内用水の灌漑面積は、記録が残る中で最も広い明治37(1904)年で3908.1ヘクタール。寛保2(1742)年以降に開発された新田(甚兵衛後新田、熱田前新田、神宮司新田、山藤新田、元美新田、稲富新田、宝来新田、永徳新田、作良新田)の面積を概測すると903ヘクタールで、これを引くと3,005.1ヘクタール。「稲生用水」の灌漑面積より狭くなってしまう。井高からして「稲生用水」=西江筋以下、米野井筋・中井筋・稲葉地井筋を含めた庄内用水全体を指していると考えるのが妥当だろう。

これは、「庄内用水が最初に川村に設けた杁、そしてそこから矢田川伏越を経て大幸川へ流入し東井筋(江川)へと送られた用水は、東井筋でのみ使われるものだったのではないか」という現時点での私の暫定的な理解とは矛盾している。

(追記)

井高から灌漑面積を推定し、「稲生用水=西江筋以下、米野井筋・中井筋・稲葉地井筋を含めた庄内用水全体を指していると考えるのが妥当だろう」としたのは、正解だった。これは本稿執筆時の理解とは矛盾するが、史実である『尾張徇行記』の記述には矛盾しない。


 

新たな疑問

・名塚が残ったということであれば、近いのになぜ稲生には砂が堆積し、名塚は大丈夫だったのか

・名古屋歴史ワンダーランド「庄内用水年表」の明和5(1768)年の項にある「稲生村に従来からあった杁の西の方に新たに杁が設けられ、水路を掘って西井筋につなぐ(その後、従来からの東の杁は廃止される)」とはどういう意味か。出典はなにか。


以下、追記

 

文政5(1822)年に成立した『尾張徇行記』稲生村の項に以下のようにある。

「西井筋先年は児玉村北にて山田より通する前の川村井筋此西井筋へ通せしか明和五子年稲生村に杁一腹増し新規掘割出来しけれどもあしき故右の杁はつぶれ今は三郷の方より河村用水を通するやうになる」

 

また、名塚村の項に以下のようにある。

「先年稲生村名塚村井元なりしか杁前砂高になりし故寛政三亥年□此井元替あり」(□は漢字が分からず)

 

これらの記述を見つけたことで、「東井筋の大幸川流入地点から西江筋までを繋ぐ水路(以下、バイパス水路と称す)が開削された記録や、存在していた痕跡がない」としていた本稿の前提が崩れ、「川村へ移ったのは庄内用水の取水口ではない。庄内用水東井筋の取水口だった」とする見方が否定された。本稿の存在意義もほとんどなくなったが、あえて削除はせず、追記という形で訂正を行い、残しておくことにした。『尾張徇行記』など基本的な資料をもっと確認しておくべきだった。その自戒の念を込めて。

 

ただし、稲生杁のひとつが名塚村に移設され、稲生杁と名塚杁の2つで取水を行っていたというのは事実である。だから、本稿において示された新しい説明の中で、「寛文7(1667)年の段階で、”東井筋の稲生杁”と”米野井筋・中井筋・稲葉地井筋の名塚杁”は分かれていて、互いに干渉しない状態にあった。」という説明は、追記時点でも通用する。定説とは異なるが、私はそうだったのではないかと考えている。