ナナメの朝明け~名古屋土地の西の端~

中村日赤の南にある斜めのラインが気になっている。最近になって気になりだしたというよりは、もうずっと前から気になり続けている。以前、yatoloveさん(@yatolove)という方がそのラインを現地で追ってらして、日赤の南西のところ(駅西銀座の通りと斜めのラインとの交点)に橋の親柱のようなものがあるというのを発見されていた。

(yatoloveさんのブログ記事:https://yatolove.exblog.jp/27133024/)

中村日赤の南西にある橋の親柱にも似た構造物
中村日赤の南西にある橋の親柱にも似た構造物

 

この斜めのラインは周囲の道路とは全く関係なく存在している。後に分かったのはこのラインは名古屋土地株式会社の社有地の境であること。斜めのラインを境として、西側は中村土地区画整理組合の事業地、東側は名古屋土地による分譲地であった。その境がそのまま残っているということである。名古屋土地はこの周辺のかなり広い範囲の土地を所有していた、中村区におけるディベロッパー的存在であり、中村遊郭もその敷地の中に作られたし、遊郭建設の際に土を掘って出来た遊里ヶ池は病院用地として無償で提供されて現在の中村日赤になっている。明治橋から中村公園までの路面電車を敷いたのも名古屋土地であり、その路線は後に市電中村線となっている。また現在の中村郵便局とその裏のNTTのある場所はかつて名古屋花壇と呼ばれた遊園地があり、ここもまた名古屋土地の社有地内であった。

googleマップより。見にくいのでぜひ下のリンクから実物を見ていただきたい
googleマップより。見にくいのでぜひ下のリンクから実物を見ていただきたい

 

(googleマップ:https://www.google.co.jp/maps/@35.1695934,136.8594257,611m/data=!3m1!1e3)

 

斜めのラインを南に辿っていくと、太閤通にぶつかって、さらにそのラインを延長していくと、太閤通の南側にはその斜めのラインが道路として存在していることが分かる。さらに南へ辿っていくと、先述のNTTの敷地の裏手に至る。名古屋花壇の跡である。現在は中村郵便局とNTTのビルが建つ敷地の角に古い境界杭が埋もれている。名古屋花壇の開業は昭和5年なので、その当時のものなのか、あるいはもっと古く名古屋土地がここを造成した時のものかもしれない。

 

 

いずれにせよこの杭がある場所は名古屋土地の社有地とそうでない場所との境界線であった。斜めのラインがなぜできたか→名古屋土地の社有地の境目がそこにあったからーーーこれで済ませてしまうことは非常に簡単で手っ取り早くはあるのだが、なぜこのラインが敷地の境になったのかというところまで考えなければ、答えとしては全く不十分だろう。そこにあったのは道だったかもしれないし、水路だったかもしれないし、あるいは他のなにかかもしれないが、境が設定されたということはそこが境になる理由があったはずだ。

 

昨年、10月に市政資料館で見た資料は大きな発見であった。「名古屋市下中耕地整理組合全図」だ。写真はその図の一部で、NTTの裏手にあたる場所である。

お分かりだろうか。少し拡大してみよう。

道に沿って何かが!
道に沿って何かが!
路面電車が走っているのが太閤通
路面電車が走っているのが太閤通

もうお分かりだろう。あれ?そうでもない感じですかね、まあいいです。でもこれはかなり衝撃の発見だった。水路である。水路があるのだ。埋もれた境界杭のすぐ横には水路があった。そしてその水路はあの斜めのラインに沿って流れている、当然、北へ辿っていけば中村日赤の南西へと至るはずだ。下中耕地整理組合は太閤通以南が範囲だからそれより北は地図の範囲外であるが、水路は太閤通を越えて、さらに上流から流れてきているような描かれ方をしている。大発見である。斜めのラインは名古屋土地の敷地の境界線であり、そこに境界線が引かれたのは水路があったからかもしれないのである。中村日赤の南西にあるあの親柱みたいなコンクリートも、もしかしらこの水路に架かっていた橋のものかもしれない。しかしながら、斜めのラインが水路由来であるというのはおそらくそうであろうという以上のことは断言できない。なぜなら太閤通以北についてはそこに水路があったという確証は何もないからである。あくまで下中耕地整理組合全図に描かれた水路を延長していくと斜めのラインに繋がるから、その可能性が高そうだということである。

反対にこの水路の下流を追っていくと、NTTの2本南の道で東に曲って地図の範囲外に出て行ってしまう。その先どうなっているのか、ということも不明であったが、こっちは先日またまた良い発見があって解明済みである。

 

下の地図は先月、例によって市政資料館で閲覧した「名西土地区画整理組合中井用水路以東栄生街道以西地域移管道路詳細図」の一部だ。


お分かりだろうか。あれ、もしやお分かりではない?

2枚目、北から南に道路の東側に沿って流れているのは徳左川である。そしてそこに流れ込んでる水路を見つけてしまったのだ。道路の北側に沿って流れているのが分かるだろう。上流を辿ってみると名西土地区画整理組合の事業地の外へ出てしまった。しかしもうお分かりですよね。あれ、お分かりではない?たしかに現在の地図とこの地図では少し変化があって分かりにくい部分はある。何が変わっているかというと、ちょうど東西の水路がある道を潰す形で日吉小学校が出来ているのだ。「名西土地区画整理組合移管道路附近略図」を併せて見ると非常に分かりやすい。以下、その一部である。

お分かりだろうか。この地図では名西土地区画整理の事業地のみではなくて、その外側まで描かれている。左の方には「名古屋花壇」としっかり書かれている。現在NTTと中村郵便局があるところだ。しかしながらこの地図には細い水路が描かれていないから(略図、だからね)「名西土地区画整理組合中井用水路以東栄生街道以西地域移管道路詳細図」と照らし合わせながら見てみる。もうお分かりだろう。繋がったのである。2つの図面に描かれた水路が繋がったのだ。つまり、下中耕地整理組合全図に描かれた斜めのラインから続いてきていると思われる水路の下流部は、名西土地区画整理組合の地区内を東に流れて現在の日吉小学校のあたりで徳左川に注いでいたのである。この地図を見つけたときはめちゃくちゃ胸熱だった。市政資料館、胸熱な発見がごろごろ転がってる。これが分かった!という話をここまでつらつらしてきたわけである。少々分かりにくくてすいません。「名西土地区画整理組合移管道路附近略図」に少し加筆してみるとこんな感じになる。

 

こないだ中村町にて未舗装の路地を見つけた。全然関係ない話に見えるし、僕としても別に最初から関係があると思って見つけたものではなかった。未舗装の路地、中村区にはいくつ残っているだろうか、と地図をぐるぐるしていて偶然見つけたのだ。ちなみにいま思いつくのは、栄生の雰囲気完璧路地と、上米野と、好太郎用水(仮)の跡と、あとは向島の団地の隣にある柳瀬川の跡も未舗装だ。そういえば、柳瀬川は「やなせ」じゃなくて「やなぜ」と読んでいたらしいことを最近知った。あ、余談の余談でした。未舗装のところは、たぶん他にもあると思う。まあ、その話は置いておいて、中村町にある未舗装路地はこんな感じの場所だ。

南側から撮影
南側から撮影
北側から撮影
北側から撮影
北を向いて撮影。途中で幅が変わる
北を向いて撮影。途中で幅が変わる
北側には細い道が続いている
北側には細い道が続いている

うん、なんともいえない感じである。自転車の痕なんかが結構あったから、抜け道としての利用は一定程度あるようだ。この路地、なんらかの理由で建物の隙間が路地として残ったなんというか偶発的なものだと思っていたら、実はそうではないかもしれない。ある資料に出会ってからそう思うようになった。未舗装路地の北側には、ほぼ同じ幅の道が続いている。そちらは舗装されて一見普通の道に見えるが、地図で見るとグリッドパターンの中で違和感のある位置に存在しており、一続きになっている未舗装路地との関連があることは確実だろう。ではなぜこれらの道ができたのか。下の地図は名古屋土地株式会社の「分譲地明細図」である。

まあまず目に留まるのは斜めのラインであろう。街をスパッと切ったような存在感のある境界線だ。このラインが名古屋土地の社有地の端だったことがよく分かる地図である。太閤通の南側には、斜めのラインの延長線上に下中耕地整理組合の道が少しだけ描かれている。そしてその道に沿って水路がある(この地図には水路かどうか明記されていないが、おそらく水路だろう)。果たしてこの水路は斜めのラインに沿って流れていたのか、そしてその水路の上流はどこへ繋がっていたのか。

 

反対に斜めのラインを北へと辿っていこう。現在土地の境界線として残っている中村日赤以南については航空写真を見ると一目瞭然、そのラインが分かるが、以北は全く分からない。現在ではそのラインが土地の境界線として受け継がれていないためである(と思っていたが、今見て見たら多少は分かった)。社有地の境目が本陣通の前後でこんな風に緩やかなカーブを描いていたとは、全く知らなかった。そして、である。そのラインを辿っていくと、その延長線上に少しだけ道が描かれているのが分かる。この道こそが、中村町の未舗装路地なのである。名古屋土地の社有地は路地の南で終わっているので、路地自体はその境界線ではないものの、斜めのラインの由来となったであろう水路なのか道なのか、は分からないが、そのものの名残が未舗装路地とそれに続く細い道路として残ったのではないかと考えられる。もし太閤通南側の水路が斜めのラインに沿って中村町の未舗装路地のところまで繋がっていたならば、この路地は区画整理前の水路の大変貴重な痕跡であるということになる。

「斜めのライン」の延長線上に未舗装路地はあった!
「斜めのライン」の延長線上に未舗装路地はあった!

 

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コメント: 2
  • #1

    yatolove (木曜日, 22 4月 2021 22:51)

    ご紹介ありがとうございます!
    斜めの土地割、敷地界を示すもので境界は水路だったのですね。
    経緯、大変興味深く拝見し、興奮しました。
    名古屋土地で検索しても今あまりヒットしないのも不思議ですね。(1967年設立で表示されますし・・)
    暑い中、変形コの字歩きをして下流方面へ辿ったのが懐かしいです。
    市政資料館の資料での検証、本当に大収穫ですね。
    これからも記事を楽しみにしております。

  • #2

    Yaura Wakami (火曜日, 27 4月 2021 22:01)

    yatoloveさん
    こちらこそ、ありがとうございます。あのブログを読んだことがきっかけとなって、結局ここまで色々知ることが出来ました。
    ひとつ疑問に残っているのは、日赤の南にある親柱みたいなのが、果たして水路に関連するものなのか?というところです。

    引き続きよろしくお願いします