精進川上流の主な水源は山吹谷とその周辺の湧き水だったようだ。流川というのは単に上流部を指すのではなくて、多くある流れの内ひとつの名称だった。白山神社方面から来る流れは「玄海川」と呼ばれていた。
山吹谷は現在の東区飯田町辺りにあった谷で、尾張名所図会にも描かれている。一帯は湧き水が多く「堀川の研究」によれば養念寺の裏庭に残る烏池(からすがいけ)はその名残なのだそう。塀の上から覗いてみたら確かに池があった。
「山吹谷 片端の東坂下なる鳥屋筋の辺は昔の那古野山の谷合うにて、暮春の比は遊蕩の諸人、酒さかなを携へ来り山吹の花を愛でつつ歌ひ舞ひなどせし地なるが、いつしか武家の宅地となりて、今もなほ山吹のところどころに残れるは昔のおもかげぞかし」
「正韻 口なしのいろにさきしもすゑの世の名に流れたる山吹のはな」
養念寺すぐ南の松山神社という神社、この境内にも池があった。すぐ脇に井戸もあって、説明書には「是の井戸は、当社創立以来のもので古来如何なる旱魃にも涸れたこなく、「天恵の井戸」と珍重せられ この井戸水で、手水をつかい心身を清め神前に額突けば 如何なる願意も叶えられるという。往昔武将この井水を賞賛、愛用し精気を養ったと伝えられている」(原文ママ)とある。やはりこの一帯は湧き水がとても豊富だったようだ。
山吹谷方面からの流れは、仮に高岳川として暗渠マップにプロットしてある(一部だけ)。下流、飯田街道との交点には「スジカイバシ」が架かっていた。 漢字はおそらく「筋違」だと思われる。
今の新栄駅辺りを通って流れて来る流川、白山神社の方(東)から流れて来る玄海川。合流点には地蔵堂があったそうだ。全く痕跡がないところが多いけど、道の形だけは昔のまま変わってないところもある。
玄海川というのは玄海という和尚が名前の由来らしい。慶長9(1609)年に白山神社が清須から越してきた際、別当(宮司の長)の玄海が寺を創建し、近辺の小屋に貧しい人々を収容し教えを説いたという。この場所を玄海村などと呼ぶようになり、その場所を流れる川にも玄海の名が付いたというわけだ。
新栄白山神社は古墳の上にある。名前はそのままで「新栄白山神社古墳」というそうだ。意外と大きくて、境内にいても古墳感がすごかった。玄海川はこの古墳の北東から南西にかけて南を取り囲むように流れていたので、かつては周湟としての役割も果たしていたのかもしれない。
(18日追記)
玄海川×飯田街道の「玄海橋」を書き忘れていた。長さ(=川幅)2.7m、1km下流の元瓦橋では3.85mで1mくらい広くなってる。
精進川から新堀川の堀留までを結んでいた掘割は石畳敷だった。合流地点の写真が残っている(出典:明治の名古屋)。現在は堀留水処理センターに取り込まれている場所だ。
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青山 里枝 (土曜日, 24 6月 2023 22:56)
精進川の何処かに慰問橋があったと思い探しています。現在の中警察あたりです。教えてください。