一里塚、中村区にあり

中村区内には一里塚があった。中村区の街道と言うと、佐屋街道や柳街道が想像されるが、一里塚があったのはそのどちらでもない。鎌倉街道である。

 

江戸時代に東海道が開かれるまで、この地域を貫く主要な街道は鎌倉街道だった(末期は後の美濃路にあたる清洲経由がメインだったかも)。鎌倉に向かう道はすべて鎌倉街道と呼んだので、関東には上道とか中道とか一口に鎌倉街道と言ってもいろんな筋がある。名古屋を通過していたのは、そのうち鎌倉と京都を結ぶもので、京鎌倉往還とも呼ばれた。俗には小栗街道と言い、江戸時代の古地図ではほとんどこの名前で書かれている。

 

中村区内を通過する鎌倉街道は、古代東海道の道筋と一致している。すなわち、あま市萱津から五条川・庄内川を渡って東宿に入り、そこから上中村・米野を経て中川区露橋へ至るというルートだ。上中村でカーブして方向を変えるが、それ以外はほぼ直線状になっている。我々がふつう旧街道と聞いてイメージするのは、江戸時代の、あの独特の幅でやや曲がりくねった道。だからそれより古い道はさぞ細く湾曲していただろうと思いきや、古代道路は非常に直線的で幅も15mくらいとかなり広かったようだ。道幅については鎌倉時代までそのまま残っていたかどうか分からないけれど、中村区内では、少なくとも経路については古代道路を踏襲したものだったから、その特徴をそのまま引き継いでいるわけだ。

 

で、その鎌倉街道に一里塚があっただろう、という話である。一里塚の歴史について軽く調べてみるとWikipediaに「平安時代末期に、奥州藤原氏が白河の関から陸奥湾までの道に里程標を立てたのが最初と言われている」とあった。その上で「一里塚が全国的に整備されるようになったのは江戸時代」とのことである。平安末期から存在していたのだから、鎌倉街道にあってもおかしくないだろう。以下に根拠を示す。


根拠1:一里山という地名があった

 

愛知郡上中村の字に「一里山」というのが存在した。まあこの文字列を見て一里塚を連想しない人はいないだろう。そしてもちろんこの字一里山、鎌倉街道の道沿いに位置している。この地名は既に失われているが、今も近くに「里山公園」がある。いや「一」どこいった。意味変っちゃってんじゃねーか。一里であることが重要なんじゃねえんかゴラおら。

字一里山。水色矢印が鎌倉街道
字一里山。水色矢印が鎌倉街道
唯一名前を残す?「里山公園」
唯一名前を残す?「里山公園」


根拠2:古渡から1里(約4km)

 

鎌倉街道は中川区露橋から今の山王通の位置を東に進み、古渡に繋がっていた。古渡は熱田台地の上にあり、そこから台地に沿って南に進み熱田神宮へ至っていたのか、あるいは東側の低地を渡り御器所方面へ繋がっていたのか、この辺のルートはいろいろな推定がなされている。古渡という地名も気になる所だ。古くは「渡って」いたのかもしれない。入江だろうか、川だろうか。『新修名古屋市史』などで古代東海道・尾張国新溝駅が古渡に比定されている。また、『再発見!なごやの歴史と文化』は、新溝駅の新溝とは新川(精進川中流部の別名)なのではないかと考察している(新溝駅は御器所台地上ではないかと言っている)。まあ、古渡がひとつ重要な通過点だったと言うことは出来るだろう。上中村字一里山の地は、その古渡から鎌倉街道に沿っておよそ1里の地点。一里塚に相応しい立地ではないか。

地理院地図より
地理院地図より

根拠3:上中村絵図に「右塚」と「左塚」が描かれている

 

これはもうよくある一里塚そのものではないか。街道の左右に丸い塚が築かれている。下の図は上下を反転させた。太線で描かれているのが鎌倉街道で、向かって上が右塚、下が左塚と思われる。左塚に続けて書かれている文字は大神主なんたらという風にも読めるが、学がないのでよく分からない。

(『尾張国町村絵図』より)

上中村絵図の右塚、左塚
上中村絵図の右塚、左塚

根拠4:日比津村絵図に「石塚」が描かれている

 一里塚があったと思われるのは上中村の地内である。上の上中村地図で言うと、上下に延びる黒い線(鎌倉街道から分岐し、日比津村に繋がる道である)が上中村と日比津村の村境になっており、向かって左側が日比津村だ。下の絵図は西が上になっていて、右上から左下にななめに引かれた線が、上中村との村境である。塚があるのは実際には上中村地内であるが、村境に近いので書いたのだろう。よって「石塚」は、「右塚」「左塚」の内より日比津村に近い「左塚」を言っているものと考えられる。「石塚」=「左塚」ということ。

(『尾張国町村絵図』より)

日比津村絵図の石塚
日比津村絵図の石塚

根拠5:地籍図を確認したい

根拠切れ。ルンバを別の場所に移動し、CLEANボタンを押して再起動してください。地籍図は愛知県公文書館に行かないと見れないのだが、なかなか行く機会がないのでまだ確認できていない。地籍図上にも一里塚の形が表れていれば嬉しい。

まさしく
まさしく

私からの説明は以上であります。以上なんでございますが、、、は?・・あ、いや、そのご指摘は当たらないと、、ええ。前向きに検討してまいりたいと、はい、そう思ってるわけでございますと先ほどから何度も答弁させていただいております。適切に判断してまいりたいと、これがいい答弁なんです