猫ヶ洞用水研究のこれまで

猫ヶ洞用水。名前はよく聞くし、猫ヶ洞池を水源をしてたんだろうな~ってとこまでは直ぐに分かるのだけど、その先が全く掴めない謎多き農業用水路である。灌漑エリアが区画整理されまくっていて、痕跡や名残の類がまるで見当たらない。そもそも台地上の用水路であるので、灌漑の必要がなくなれば残しておく意味もなく、都市化宅地化の中で完全に姿を消し、忘れ去られたと言っていいだろう。

 

しかし名古屋の川跡や用水跡を追いかけている僕にとって、だからと言ってほっておける存在ではない。ただしその実態が掴みにくいのは確かであるから、その調査というか研究は、名古屋市の中心部であるにも関わらず大幅な遅れを取ってきた。だから、まだまだ研究と言えるほど結果が伴っていないのが現実ではある。が、そもそもインターネットで「猫ヶ洞用水」と検索すると「猫ヶ洞池」のWikipediaの次にYaura Wakamiのツイートがヒットするというような圧倒的情報不足の中だ。ひとまずの知識をまとめておくことにも、一定の意義はあるだろう。

 

 

なお、猫ヶ洞用水に関するいろいろな情報は、小林元氏の著書『千種村物語』を大いに参考にさせていただいた。千種村は、古井村に、丸山村・名古屋村東畑・名古屋新田・鍋屋上野村のそれぞれ一部が合併してできた、熱田台地上の村である。この土地の水流について同書は、委曲を尽くした文献として他の追随を許さない存在だ。


<2020/11/13>

猫ヶ洞池を水源とし、御器所台地上の水田を灌漑していた猫ヶ洞用水。小林元氏の著書「千種村物語」等を参考に、猫ヶ洞用水とその他のため池からの用水を併せ、台地上の主な水の流れを地図にしました。絶賛研究中。

 

猫ヶ洞用水の灌漑先は御器所台地の上。山崎川の谷から台地へ上がるのは、丸山村の南(地図中、猫ヶ洞用水とある)からでないと不可能である。地形的にこのルートが唯一の選択であったと思われる。

 

?のところはまだよく分からない。この辺で猫ヶ洞用水と蝮ヶ池からの用水とが出会い、今池方面への丸田堀、石仏方面への三社川などに分水していた。どこでどう合流しどう分かれていたか。

御器所台地北部におけるため池と灌漑用水の流れ
御器所台地北部におけるため池と灌漑用水の流れ

<2020/11/16>

改訂第2版

猫ヶ洞用水には古川と新川の2筋あり、新川は古川の西に並行して享和元(1801)年に開鑿。古川よりも1.2mほど高く、その分だけ水田化が進んだ。

 

猫ヶ洞用水、石川(山崎川の上流部をこう呼んでいた)からの取水位置は「高針道」の橋のすぐ南だと分かった。現在の本山交差点の少し北にあたる。

 

名前を書いた池の中で現存しているのは、猫ヶ洞池(上池)と茶屋ヶ坂池、竜ヶ池だけか。みんな埋め立てられた。

 

御器所台地北部におけるため池と灌漑用水の流れ2
御器所台地北部におけるため池と灌漑用水の流れ2

<2020/11/18>

改訂第3版

猫ヶ洞用水の流れに標高を追加。古川と新川の標高差、そして取水地点から少しずつ流れ下っていたのがよく分かった。?のところも解消したからほぼ完成系かな。

御器所台地北部におけるため池と灌漑用水の流れ3
御器所台地北部におけるため池と灌漑用水の流れ3

<2020/11/16>

鶴舞公園の東、狭間町の谷。西は鶴舞公園内の竜ヶ池に繋がっており、かつてはこの谷の北の端に沿って水の流れがあった。

狭間町の谷
狭間町の谷
狭間町の谷のヘリ
狭間町の谷のヘリ

狭間町の谷は、三社川の支流(あるいはこっちが本流か)のこの部分にあたる。竜ヶ池は現存。この流れはたしかに猫ヶ洞用水の一派だった。



<2020/10/7>

今池中学校に突き刺さるような形で終わってる水路が2つ。察しましたよ。

 

つまーり。今池の地名の由来は「今池」という名の池なのであるがその「今池」があったのが現在の今池中学校の土地なのである。だから2つの水路には池から水が流れ出していた!というわけ。

 

こちらのブログ(今池についても書かれている/勝手に紹介してすいません)に掲載の地図に今池から西に流れ出す水路が描かれている。下の画像は日文研データベースより、同じく大正時代の地図。版が違うのかこちらは今池から南に流れ出る水路が描かれている。

 

西、そして南に流れ出る2つの水路は土地宝典に描かれた流路と完全に一致する。なぜ大正時代の地図(大名古屋市街地図)には片方ずつしか描かれなかったのか、というのは置いておいて池と接続していたのは確実であろう。以上

 

写真は大正初期の今池

(出典:名古屋地名ものがたり)

在りし日の今池
在りし日の今池

 

<2020/11/18>

今池からの水路。

・この他にもうひとつ北側から流れ出る水路もあったと判明

・南側の水路はもしかしたら今池から流れ出していたわけではなかったかもしれない

 

というのも「千種村全図」(字分全図ではなく村全体の地図/"名古屋コレクション"より)の描かれ方だと、今池の上流で分かれた流れが、池の南に沿って流れている。だからオレンジ〇のところで池から取水していたかどうか微妙なんだ。


<2020/11/18>

「千種村物語(小林元/著)」と氏の寄稿した雑誌・郷土文化より、「千種村字分全図」の一部をつなぎ合わせた地図。かなり正確なので、これで具体的な水路の位置を知ることができる。右手からやってくる2本の水路が猫ヶ洞用水の古川・新川。今池から流れ出る水路の一部のみ既に暗渠マップにも載ってます。

千種村字分全図(一部)
千種村字分全図(一部)

 

現在の国土地理院地図と重ねた図。ところどころ道の形が引き継がれているところもあるし、こうしてみると急に実感が湧く。暗渠マップへのプロットも近い!!

国土地理院地図 - 千種村字分全図(一部)
国土地理院地図 - 千種村字分全図(一部)

<2021/1/4>

猫ヶ洞用水系統、せっかく台地上にあるんだから赤色にした。そいでひとまず現状書けるとこまで全部追加しました。

名古屋暗渠マップより(部分)
名古屋暗渠マップより(部分)

<2021/3/14>

「千種耕地整理組合町並字区域変更及字名廃止町名改称図」

非常に大きい図面なので複数撮影した写真を繋ぎ合わせて作成。整理前の正確な図面で、今池、蝮ヶ池はじめ猫ヶ洞用水など台地上の用水路の流れを完璧に把握、そして今の地図に比定できる。2枚目は国土地理院地図と重ねたもの。

 

詳細は日本版MapWarperの当該ページより。


 

 

日本版 Map Warperが素晴らしいのと千種耕地整理組合の図面そういえば一度もツイッターに上げてなかったので映えポイントを。

池下にあった蝮ヶ池。池下はまさに池の下だった

 

蝮ヶ池の下(つまり池下)はかなり水路が複雑に張り巡らされていたようだ。千種耕地整理範囲外だけど北側のセントラルガーデン方にももちろん水路があって、そっちは振甫池、鉄砲坂池からの水も。流水方向が謎なやつがいくつかある。

 

今池。今池中学校が池の跡だといわれるが、実際にはその東側北側の住宅街までかなり広い池だった。北東から流れ込むのが「丸田堀」

 

名古屋市上水道。現在すいどうみち緑道になっているところ。耕地整理前からあったんですね。かつては広小路まで繋がっていたのが分かる。

 

内山の今も残る水路跡の道。ヤマダ電機ところは用地が買収されたのか水路が描かれていないが東側に続いている。


(<2020/11/18>)

千種区内山のちょっと不自然な道→水路由来


 

この水路は明治の旧版地図にも載っているのでかなり前に暗渠マップにプロットしてある。源流までは知らなかったが、蝮ヶ池からの用水路であると分かった。


内山の水路=石神堂筋悪水の全容。流れは西←東、名前の由来は画像左上の物部神社。かつて石神堂とも呼ばれていた。

 

中央線から分かれる軍用線。千種公園のあたりまで線路が延びていた。道の形や区画に名残がある

 

今池に流れ込んでいた丸田堀の全容。右下から大きく弧を描いている。2つの水路が合流した地点からがおそらく丸田堀で、北側のが蝮ヶ池からの水、南側が猫ヶ洞池からの水。

 

ちなみに丸田堀に関してはまじで何の痕跡もない

 

丸田堀は環状線の手前で2つに分かれていて、南側の水路は今池に流れ込まずその南側に沿って流れていた。なぜこうなっていたかはよく分からんが、今池は南側には杁がなかった。

 

猫ヶ洞用水はだいたい今の日進通の位置を流れてきていた。画像で見えている水路はすべて猫ヶ洞用水系統。南に折れて「青」と「春」の間を抜けて飯田街道まで続いているのが、石仏や御器所の方を灌漑していたいわゆる猫ヶ洞用水である。


最後に、『宮田用水史』の附図である「尾陽郡村用悪水分見絵図」に描かれた猫ヶ洞用水をご紹介して、おしまいにしたいと思う。この絵図は木曽川以南の濃尾平野全域に亘るものであるにも関わらず、用水からの分水の名称まで詳細に描かれていて素晴らしい。僕がある程度知識を持ち合わせている庄内用水系統の描写で確認してみても、おかしな間違いはひとつもなく、この絵図は相当信頼をおいていいものであると感じている。

絵図には、上池と下池の2つの池で構成された猫ヶ洞池(残っているのは上池)とその南東に位置する七ッ釜池(千種スポーツセンターのところの新池)から流れ出し、山崎川から西に分かれて今池や大池(中警察署の場所にあった)へと至る猫ヶ洞用水の主な流れが描かれている。さらにそこから分かれる水路に、川名杁、石佛杁、御器所杁、前津杁の4つの名称が書かれている。石佛杁は川名村絵図における石仏井筋と同一であり、御器所杁は御器所村絵図における古井村用水にあたる。石佛杁から南へ延びる水路は丸池(御器所ステーションビルの場所にあった)を経て石仏村や御器所村の灌漑に供された。南部方面への猫ヶ洞用水の本筋みたいなもので、この石佛杁が単に猫ヶ洞用水と呼ばれることもある。


御器所村には広見ヶ池、龍興寺池(天池)という比較的大きな溜池があり、そこにも石佛杁を介して猫ヶ洞池の水が供給されていた。これらの溜池は台地西側の低地(東郊耕地整理組合地区と凡そ一致する)を灌漑するためのものである。最終的には低地を流れる精進川が全ての水を集めており、耕地整理後は、天池水路に代表される東西の水路が新堀川に接続して地区の用排水を担った。


丘陵地帯の猫ヶ洞池にはじまり、今池などの溜池を結びながら台地上を縦横に巡り、さらに溜池を介して周縁の低地を灌漑し、玄海川や天池水路などを経て精進川・新堀川へと水が集い、やがて海へと流れ込む。地形的変化を超える用排水ネットワークのダイナミックさを、いま猫ヶ洞用水の流路を再現する中でひしひしと感じる。これまで全く別々に認識してきたものが猫ヶ洞用水のネットワークを通じて繋がり、それがひとつの大きな鍵になって扉を開き、新たな(実際には旧い)土地の鼓動を聞いた気がする。

 

最後に「御器所台地北部におけるため池と灌漑用水の流れ」の第3版を再掲しておく。我ながら全体像が掴みやすく、よくまとまってるな~と自画自賛してしまいそうになる。