市政資料館にて中村土地区画整理組合関連の図面を見てきた。例の「斜めのライン」を境に名古屋土地の社有地と接する地域である。発見しかなかったのでまとめざるを得なくなった。まずひとつ目「名古屋市中村土地区画整理組合平面図」
中央を縦断しているのが庄内用水中井筋、中央付近を横切っているのが本陣通である。そして東側の端が斜めのライン、名古屋土地との境界線である。中井筋の西側に描かれている水路と分水は初めて知ったものである。すでに暗渠マップに追加しておいた。最近見た東宿土地区画整理組合の平面図にもこれまで判明していなかった水路がたくさん描いてあって、ちょうど東宿と中村は隣り合う関係にあるから、暗渠マップ上においては一帯の水路網が急激に拡充されている昨今だ。
名古屋市中村区は東宿辺りの暗渠マップ、充実してきてます。都市計画基本図より部分的に判明していた水路が、稲葉地井筋から上水道(かみすいどう)へ至るまでの一連の流れとして繋がりました。また中村土地区画整理地区でも、中井筋からの分水を加えるなど進捗がありました。#名古屋暗渠マップ pic.twitter.com/jPQ1PARgvq
— Yaura Wakami (@kawtky) March 14, 2021
さて気になるのはやはり斜めのラインに沿って何があったかである。言い換えれば、何があったからそこが境界線となったのかということ。それは道だったのか水路だったのか、ただの畦だったのか。地図を拡大してみるとこんな感じ。
いや、なんじゃいこりゃ。斜めのラインに沿ってというかそのものが、一定程度の幅があるような描かれ方をしている。しかし着色はされておらずそれが道なのか水路なのかそのどちらでもないのか、よく分からない。この線を北に辿っていくと一筋の水路があった。
この水路は区画整理後の道とは全く関係なく存在しているので、おそらく整理前のものだろう。この水路が名古屋土地との境界線とぶつかっている。この地図は中村土地区画整理の事業地内しか描かれていないから、水路の下流部がどうなっていたのかは分からない。この水路とぶつかる地点以北においても、境界線に沿って一定程度の幅がある何かは続いている。これがもし水路とぶつかる地点で途切れていたら、その正体は水路だということになるのだが、残念ながらそうではない。水路はぶつかった地点から境界線に沿って流れて下中耕地整理組合地内の名古屋花壇裏に至り徳左川に流れ込む水路へ繋がっていたのか、あるいは境界線をまたいで名古屋土地㈱の社有地内へ流れていっていたのか。まあ考えられるのはこの2つであるが、この地図だけでは判断がつかない。
続いての関連資料は「中村土地区画整理組合地区附近図」である。
100点満点で満足である。なんだこの素晴らしい地図は。
どんな点が素晴らしいのかひとつずつご説明しよう。まずこの時代のこの地域を描いた地図でこんなに詳細なものは他にないんじゃないかと思う。中村電気軌道の停留所の名前、そしてどの停留所に交換設備があったのかということまではっきり分かる。終点の公園前電停はこの位置にあったのか。電車は大鳥居の下をくぐっていたのではなくて、実は脇を通りぬけていたんだというのじゃよく聞く話であるが、実際のところこんな感じでカーブを描いていたとは。東側で一旦かなり南に逸れてから道路の端ぎりぎりを通ってカーブに侵入する形だ。というか昔の太閤通は今の半分くらいの幅しかなくて、そして今の道の北側に沿っていたということもよく分かる。遊里ヶ池もしっかり描かれていて、そこに徳左川が接続していたというのもよく理解できる。昭和10年の土地宝典では存在しているはずの遊里ヶ池が描かれておらず、その大きさなどは縮尺の大きな国土地理院の地図か、あるいは半分以上埋め立てが進んだ後に撮影された航空写真でしか知ることができなかった。おそらくこの地図に描かれた遊里ヶ池はかなり正確だろうから、その点でも貴重な資料だ。旭遊郭とあるのは中村遊郭で、その外周を囲っていた堀もきちんと描かれている。そして特筆すべきは集落と中村公園の描写である。これはもう説明というか、地図を見てもらえればその詳細さには驚かされるであろう。
ということで本題の斜めのラインを見ていこうと思うわけであるが、この地図においては1本の線が入っているのみ。あんまりいい情報はないかなと思ったらそんなことはなかった。これを見てくれ。
地図の一部を拡大したものである。右下に見切れているのが遊里ヶ池、そしてその左側から斜めのラインがやってくる。そして、である。お分かりであろうか。謎の点線。発見してしまった、斜めのラインのほぼ延長線上にあると言っていい、点線。そしてこの点線はさっきの「名古屋市中村土地区画整理組合平面図」に描かれていた区画整理前のものと思われる水路と完全に重なるのである。これは大発見である。ちょうど点線がはじまる地点から真北に延びている道があるが、これが昨日のブログに書いた鎌倉街道から日比津村へ至る道である。「名古屋市中村土地区画整理組合平面図」に描かれた水路、そしてこの地図に描かれた点線の存在は、土地宝典にも描かれていなかったから、これまでは全く知らなかった。この角度でぶつかっているのだから、水路の下流部が斜めのラインのほうへ流れていても全然おかしくないし、むしろ境界線を越えて東に流れていた(その場合そのすぐ先には遊里ヶ池がある)と考えるよりも自然ではないか。斜めのラインの北のほうは単純に日比津村への道が一筋あるだけなのかと思っていたら、そこからさらに分岐する形で日比津村への道と水路とが分かれていたのである。昨日のブログの土地宝典にこの点線を加えてみるとこんな感じになる。少なくとも中村土地区画整理組合の地内においてはこの点線に沿って水路があったということだ。
水路はどこから来てどこへ続いていたのだろうか。どこから来て、ということに関してはおそらくこの位置にある用水路であれば中井筋からの分水であろうと考えられるし、そして「中村土地区画整理組合地区附近図」の点線を辿っていくと中井筋にぶつかるから、この点線がそのまま水路の上流部である可能性もある。というかこの点線そもそも何を描いたものなんだろうか。なんかの境界?あ、もしかしたら日比津村と中村の境かもしれないな。
続いて「中村土地区画整理組合地区附近図」の付録というか、一緒に入っていた図面を見ていこう。「都計第十七号線平均幅員詳細図」これがまた大いなる発見である。そしてまあその次に見つけた地図がこの大いなる発見もろとも飲み込んでしまう超大いなる発見だったのだけど、それは後にまわします。
お分かりだろうか。お分かりですね。え、お分かりでない?まじですか、でも全然大乗仏教です。水路です。水路があって、そしてその東側に名古屋土地株式会社経営地と書いてある。この道はどこか。本陣通だ。つまりここなのである↓
ということはそういうことではないか。斜めのラインに沿って水路が続いていたということではないか。つまり!!次の地図へGo
「中村土地区画整理組合道水路平面図」
複数撮影した画像を合成して1枚にしているのでところどころズレがある。ご了承願いたい。
おおお
おおおお。ここはさっきの図面「都計第十七号線平均幅員詳細図」と同じ箇所。
水路は名古屋土地との境界線に沿って北の端まで続いている。図面としては最初の「中村土地区画整理組合平面図」とよく似ているのだけど、平面図では着色されていなかったところが道水路平面図では水色に塗られているのである。これはもう水路ということで信じてしまっていいのだろうか。斜めのラインは水路の痕跡であると言い切ってしまっていいのだろうか。ああ、この図面がすべての答えだというのか!
でも、ひとつ疑問。まあ疑問というのは新たな発見があったら必ずそこに付随するようにまとわりついてくるものだから、いろいろ調べていく上ではその原動力になるものでもあるし、疑問が生じること自体は喜ばしいことなのかもしれない。ということで何が疑問かというと、「名古屋市中村土地区画整理組合平面図」に描かれていた区画整理前のものと思われる水路についてである。
「水路の下流部が斜めのラインのほうへ流れていても全然おかしくないし、むしろ境界線を越えて東に流れていた(その場合そのすぐ先には遊里ヶ池がある)と考えるよりも自然ではないか。」
と考えていたのに、この道水路平面図では水路は日比津村へ続く道のほうから流れてきているように描かれているのだ。日比津村へ続く道のほう、とはつまり中村町にある未舗装路地のことである。ここでもう一度土地宝典を載せておこうと思う。
黒い点線のほうから流れてくる水路、未舗装路地のほうから流れてくる水路、図面によって違うのだ。もしかしたらこれは、2つ水路があって、それが途中で合流していたということなのだろうか。それとも、道水路平面図に描かれている水路は嘘なのか?嘘というと聞こえは悪いが、道水路平面図において水色で着色されたところは平面図でも同じように描かれているわけで、本来そこは水路ではなかったのに、図面に水路っぽい隙間があったので勘違いして塗ってしまったということも有り得なくはない話だ。まあでもほぼそんなことは有り得ないだろうな。
そんなことを考えながら、「中村土地区画整理組合地区附近図」を見返していたら、なんとそこに答えが載っているではないか。やばい全然気づいてなかったぜ。日比津村への道、線が3本になっているってことは水路が並行してるじゃねえかこのやろう!嘘じゃなかった。そっちの方面にも水路は延びていた。やはり2つは途中でぶつかって合流していたんじゃなかろうか。
結論。
いわゆる(極狭界隈以外ではいわゆらない)斜めのラインのところは水路があった。これはもう確実にそう言い切ってしまおう。太閤通の南には水路があって、その水路は太閤通以北から流れてきているように描かれているわけだし、ほかの図面を見てもそこに水路がないとするほうがおかしい。斜めのラインは水路だった。
で、その北についてはどうだろうか。僕は2つの水路が合流していた説を推していきたいと思う。ひとつは中村町の未舗装路地の方からの流れ。これは道水路平面図に描かれているし、「中村土地区画整理組合地区附近図」にも描かれている。おそらくそのままこの道に沿って日比津村の集落まで繋がっていたのではなかろうか。そしてもうひとつは、未舗装路地よりも南で日比津への道とは分かれ、「中村土地区画整理組合地区附近図」に描かれた点線、つまり日比津村と中村との村境に沿っていた流れ。おそらくこっちは中井筋からの分水だろう。
以上でこの斜めのラインについてはひと段落。最終的には愛知県公文書館の地籍図を見えれば合流していたのかどうかというところも良く分かるのだろうと思っている。それと、中村日赤の南西にある橋の親柱みたいな構造物。あの脇を水路が流れていたということは確実になったわけだけど、あれは結局橋なんだろうか?
文中の地図・図面はすべて名古屋市市政資料館所蔵のものである
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