消えた道標@柳街道

街道は名古屋城下と佐屋街道とを短絡していた街道である。祢宜町(現在の名駅南1丁目)から牧野、上米野を通り、南へ曲がって現在の黄金中学校のあたりを過ぎ、高須賀、烏森へと至る道筋で、区画整理により失われた部分もあるが、およそ半分程度は現在でも辿ることができる。祢宜町から上米野の集落あたりまで(いわゆる牧野本通)は街道沿いに家や商店が建ちならび、それなりに賑わいがあったようだが、以西では田んぼの中をゆくのんびりとした道だった。そんな柳街道を城下の側から辿っていって、丁度南に(左に)道が折れる地点から、下中村・上中村の集落へ向けての道が分岐していた。つまりその地点は三又路になっていたわけだが、そこに道標が建っていたというのだ。

明治26年発行の旧版地図を元に作成/〇の分岐に道標が建っていた
明治26年発行の旧版地図を元に作成/〇の分岐に道標が建っていた

 

中村というと豊臣秀吉や加藤清正の出生地としてあまりにも有名であるけれど、道標というのは明治6(1873)年に建てられた清正公誕生之地への道しるべであった。「清正公誕生之地 右エ八丁余」と刻してあったそうだ。写真も残っている。といっても当初の地で撮影されたものではなくて、後に豊清二公顕彰館の前に移設され保存されていた時の写真である。入口右手の植え込みの中に建てられ、説明の看板も用意されていて、写真を見る限りでは大切に保管されていたように思える。

中村歴史の会「上中村」に掲載されている道標の写真
中村歴史の会「上中村」に掲載されている道標の写真

 

豊清二公顕彰館は平成元年にいったん閉館となり、平成3年に現在の秀吉清正記念館としてオープンしている。同じ建物には中村図書館、中村文化小劇場が入っているが、この建物の周りを見渡しても、どこにもこの道標の姿はないのだ。柳街道に建っていたあの道標は果たしてどこへ行ってしまったのか。

 

ひとりで考えていても埒が明かないから、秀吉清正記念館の事務局に問い合わせてみることにした。建て替えに際してどこか別の場所に移設して保存されているのではないかと思ったからだ。記念館の方には大変お忙しい中、わざわざ調べていただいた。大変感謝している。

が、肝心の道標については悲しい現実がある。現在、少なくとも秀吉清正記念館や名古屋市博物館の管理下には存在していないとの回答であった。つまり公式見解としても、現時点ではなにも分からないということだそうなのだ。どこへ行ったかも、そもそも保存されているのかも、さらに平成元年に閉館になった際にそこにあったかも確証がないという。撮影日の前後は不明であるが、当時撮影された写真の入口向かって右側に道標が写っているものもあれあば、写っていないものもあるという。写っていないというのが最晩年のものなのであれば、閉館前にどこかに移設されていたという可能性も考えることが出来ないわけではないが、しかしこれについては、私は閉館時までは確実にそこに存在していたのではないかと思う。写真を見る限り、ただそこに置かれているといった状況でもないし、わざわざ他に移す理由もないと思うのだ。ちなみに中村歴史の会の「上中村」の発行も昭和末期から平成初期であると思われる(詳細には分からない)ので、豊清二公顕彰館としては晩年の撮影であると思われる。

 

というわけで、引き続きこの道標の行方を追っていく必要がありそうだ。看板まで設置して保存していた大切な歴史遺産である道標を、ただの建て替えでもう捨ててしまえとなったのなら余りにずさんすぎるし、誰もそれを管理しようという意識がなかったからどこかへ行ってしまって分からなくなったということかもしれないし、どうして道標が残らなかったのかという経緯は分からないものの、公式見解が「不明」であることが残念であるということは間違いない。この世界のどこかに、人知れず残っていることを期待したいし、それをいつか見つけ出せればいいなと思うがしかし。いったい何処へ行ってしまったのだ、道標よ。

 

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「清正公誕生之地 右エ八丁余」の道標についてなにか情報がありましたらご一報ください