東郊耕地整理と天池水路

 

新堀川の畔に歌志軒の本店がある。そのすぐ北側の川岸に穴が開いていて暗渠が続いている。

この暗渠の存在と流路を初めて知ったのは土地宝典を見たときだったたと思うが、土地宝典には基本的に地名と地番以外の文字情報は載っていないので、名前は分からないままだった。

暗渠の入り口。右の建物が歌志軒(筆者撮影)
暗渠の入り口。右の建物が歌志軒(筆者撮影)

 

最近市政資料館によく行っている。あそこは本当に面白い資料の宝庫だ。何度行っても、またその次の日には新たに閲覧した資料を見つけ、そして有る程度たまったら資料館へ出向く。

1月11日に東郊耕地整理組合関連の資料を見て、またいろいろなことを知った。

歌志軒の脇に流れ込む暗渠の名前は、「天池水路」というものだった。これは「東郊耕地整理組合換地図」に書いてあった名前で、ほかに「天池用悪水路」という書かれ方もしていたが、「名古屋市東郊耕地整理組合整理全図」という別の地図には「天池水路及側道」とあったので、より一般的だったと思われる名称で暗渠マップに登録した。こうして新しいこと、特に名前を知ることの喜びは計り知れないと思う。

「天池水路」
「天池水路」

 

「天池用悪水路」という名前が示すように、この水路は単に排水路として存在していたわけではなく、天池(龍興寺池、新雨池とも)の水を水田へと送る用水路の役割も果たしていた。名古屋市の近郊では耕地整理法を適用した新市街の拡大が行われ、東郊耕地整理地内も後には市街地が形成されたが、耕地整理とは本来は耕地を整理する目的のものである。第一期工事は大正2年9月に開始され、同6年10月に完了している。

天池余水吐樋門。ここから天池水路に繋がっていたと思う
天池余水吐樋門。ここから天池水路に繋がっていたと思う

 

大正5年12月の「愛知県愛知郡東郊耕地整理全図」を見ると、従前より存在していた溜池(北から龍興寺天池、廣見ヶ池、新池、荒池、大喜池)とともに、灌漑と排水を担う水路が張り巡らされていたことが分かる。水路は、溜池から西に延びる主要な水路(例えば、天池を水源とした天池水路や大喜池を水源とした大喜水路)と、幅1間の南北の支線から構成されている。

西端を流れるのは新堀川であり、東西の水路は最終的にここへ流れ落ちて地区の排水を完結していた。南北の筋は、30間毎に水路と道路とが交互に設置されており、先述の大正5年の地図によれば、当初水路部分は単独(水路のみ)で存在していた。その敷地は現在では道路となっているため、水路として計画されたものの整備されずに道路となった可能性を拭えずにいたが、東郊耕地整理においては確実に水路が存在していたことが分かった。しかしその存在期間は非常に短かった。

上が北。「道路、水路、道路、水路」と交互になっている
上が北。「道路、水路、道路、水路」と交互になっている

 

本来耕地の整理を目的とした組合であったが、名古屋市の発展は著しく「市街地形成の機運早くも到達せし傾向を来たしたり(解散ニ因ル事業報告書)」という状況になり、当初の計画を変更した第二期工事として市街化の素地を整えることとなった。道路の拡幅や隅切りが行われ、水田は廃され、灌漑の必要がなくなった水路は単に排水の役割を果たすのみとなった。工事は大正10年5月に着手され同12年5月に完了した。

第二期工事の完了により灌漑の必要がなくなった溜池は、最早無用のものとなった。東郊耕地整理組合においては、当初溜池は地区から除外されていたのを、各池の改修や浚渫を行って用水の枯渇を防ぐとともに浚渫土砂を低湿地のかさ上げに充用するため、大正2年10月に編入したという経緯があった。それがたった10年でまったく無用のものとなったことは、ひとえに市発展の勢いの凄まじさを物語っている。

排水を担っていた水路は尚も開渠のままで残されていたが、市街地の形成が進むにつれて支障をきたすようになっていた。そのためこれを第三期工事として暗渠に代えて敷地を道路に転用し、排水の改善と土地利用の増進を図った。こうした道路は「水変道路」と名前が付いた。工事は、各溜池の埋め立てとともに、大正15年7月に着工し翌昭和2年4月に完了した。

「東郊耕地整理組合整理全図」の一部。細い「水変道路」が1本おきにある
「東郊耕地整理組合整理全図」の一部。細い「水変道路」が1本おきにある
「瀧子水路」暗渠化の際の様子
「瀧子水路」暗渠化の際の様子
廣見ヶ池埋め立ての際の様子
廣見ヶ池埋め立ての際の様子


いま、地区内の南北の道を見ると、広い道と細い道が交互になっているのが分かるが、これは耕地整理当初からの道路と水変道路とが交互になっているからだ。細い道はもともと水路だったのだ。昭和5年の「東郊耕地整理組合換地図」では水変道路に「南北第〇号水道路」といった名前が付けられている。この地図によれば水変道路の幅は2間であり、これは水路とその両側に側道を伴った構造(全体で2間、水路が1間で側道がそれぞれ0.5間の幅)に由来している。大正5年の「愛知県愛知郡東郊耕地整理全図」によれば当初の水路は側道を伴わず単独で存在しているので、側道が整備されたのは道路拡幅などが行われた第二期工事の際であると思われる。ちなみに南北の道路は、もともと2間で整備されていたのを両側に0.75間ずつ拡幅して3.5間となっており、水変道路とはやはり差がある。

こうした広い道と細い道が交互に存在する場所は他にもあり、例えば旭耕地整理組合(中村区)の事業地でも同じような状況がある。こちらは予定図の段階では水路と道路とが交互になっているものの、確定図では水路のほとんどが既に道路(水変道路)になっていて、一度でも予定図に描かれた水路が実際に整備されたのか判断が付かず、また整備されていたとしても耕地整理事業の完了までには廃されるという非常に短命なのもよく分からない要因であった。東郊耕地整理においても状況は酷似していると言えるが、しかしこちらは10数年間ではあるが確実に水路は存在していた。

 

第三期工事により天池水路をはじめ、東西の水路も悉く暗渠となった。暗渠化したということは、おそらくすべて下水道の一部になったということだと理解しているが、天池水路のみは現在でも新堀川に直接接続している。もっとも中がどのような構造になっていて暗渠がどの地点までどう残っているのかは分からない。合流地点の石組みアーチはシンプルながらも美しい。第三期工事の際のものだとすれば、整備は大正15年7月から翌昭和2年4月の間だ。大喜水路も新堀川への合流地点にその痕跡を残しているが、コンクリートで塞がれている。

 

東郊耕地整理事業によって誕生した水路網は、短い期間しか存在しなかった。存在し得なかったとも言えよう。名古屋近郊であるが故に耕地整理による整備がなされ、名古屋近郊であるが故にすぐに市街化の波に呑み込まれた。歴史の大きな転換点の只中において、名古屋市の発展にその運命を決定付けられた儚い存在だった。

大正9年測図。第二期工事の前
大正9年測図。第二期工事の前
昭和7年修正。第二期、第三期工事の後
昭和7年修正。第二期、第三期工事の後

 

 

各種地図 名古屋市市政資料館 所蔵

     国土地理院旧版地図(http://user.numazu-ct.ac.jp/~tsato/webmap/map/lmap.html?data=history より)

参考・写真 解散ニ因ル事業報告書(名古屋市東郊耕地整理組合)