神島の”字”について [非暗渠的話題]

以前の神島についてのブログで、神島の地名について以下のように書いた。

 

字についてであるが、住所(=地名ではあるが、使われていない地名があるという話なのでややこしい)には入っていないため、国土地理院地図やgooglemapsはじめ各種の地図でも全く記載がない。しかしながら、八代神社のホームページを見ると「三重県鳥羽市神島町1番地(字中之山)」と書かれていたり(すげえ地名。一等地一番地じゃないすか)、鳥羽市による告示の中で「字亀虎」「字乾」「字東山」が確認できたりする。昔の絵図にもいくつか字が書かれているし、とにかく字が存在していることは確実なのである。告示で現れるということは、正式な地名としては今も存在しているものの、実質的にはもはや必要がなく、住所としても全く使用されていないというこだろうと想像する。しかしその全ての名前だとかそれぞれの範囲・境界がどこにあるのかということについては全く知るすべがないのである。

 

一般の地図を見る限り、鳥羽市神島町以下の地名は存在しないように思われるけど、実は字が存在していて、その内いくつかの名前が分かっているよ、という段階であった。この後、神島について各種の資料を調べている中で、島内の地名を含む記述や、その地名の由来について言及された文章をいくつか見付けることが出来た。そうした情報を基に、この疑問の解決に一定程度の道筋が見えた現段階で、神島の地名についての知識をまとめておきたい。


まず、三重県庁が所蔵している「志摩国答志郡神島村全図」(以下、村絵図と呼ぶ)を入手し、これを原図として白地図を作成した。この絵図は明治18(1885)年10月に作成されたもので、測量に基づく平面図であるという点で近世の絵図とは一線を画している。絵図には道や寺社の位置、そして字及びその境界線などが描かれており、現代の地図と比較しても違和感なく理解できることから、その描画は相当程度正確であると言える。ただし測量を行ったのは海岸部のみであるようで、特に等高線についてはかなり大雑把な描かれ方だ。具体的には、神島最高峰の灯明(とうめ)山とその北西に位置する松山(下山)の頂上を中心とした円形の山が描かれており、水紋にも似た同心円状の斜面が見て取れる。しかしながら実際にはもっと複雑な地形をなしており、また松山(下山)は独立した峰ではなく灯明山の尾根のひとつが張り出したものであるから、この絵図における山の描画はぜんぜん信用できるものではない。まあ、そもそも測量なりの調査が出来ていないから、あからさまにこの様な描き方をしたのかも知れない。

 

絵図についての説明はこれくらいにしておいて、本題に移りたいと思う。下図が同絵図から海岸線及び字の境界線のみを抜き出し、現時点で判明している字を書き込んだ白地図である。

神島村絵図を基に作成した字マップ
神島村絵図を基に作成した字マップ

 

なぜ現時点で判明していない字があるかというと、そもそもこの絵図中には字が書かれているのだが、残念、画質が悪くて読めないのである。もちろん見て読み取れる文字もあるのだけど、なんじゃこれというのもある。他の資料の記述と照らし合わせながら読解していき、最終的に集落の西側に位置する「??」のみが取り残されたという状況だ。まあまだ見れてない資料がいくつもあるだろうから、どこかでここの地名が出てくることを期待している。

 

ということで、分からない所はどうしようもないので置いておいて、取り敢えず判明している字について資料とともに読み解いていこう。


字 東山

神島で最も高い山は灯明(とうめ)山である。この「東山」という地名は灯明山の北東側斜面一帯を示す地名だ。よって東山という名前の山があるわけではない。

しかし実際には灯明山そのものを指す”山の名前”として「東山」が使われている例がある。三島由紀夫の『潮騒』には「島の東山の頂きに近い燈台である」(第一章)という表現が出てくる。たしかに神島灯台は実際に字東山の地内に立地しているが、「頂き」を擁しているのは灯明山であって「東山」ではない。

 

字東山にある神島灯台
字東山にある神島灯台

また、『志摩民俗 下巻』(1969年3月)に「古い唄に「神島の、東山から鏡がひかる。」というのがあるが、何を唄ったものかわからないという。」とある。この唄については同書の記述の通り何を唄ったものかは定かではないのだが、「鏡がひかる」という表現から、神島の「鏡石」を唄ったものであると仮定してみよう。鏡石は”表面がツルツルしていて鏡のようで、女の人達が簡単な化粧をするのに使ったりした”というのが最もよく語られる伝承だが、それと異なる話が『神島の民俗誌』(2004年, 東京女子大学)に載っている。

かつて漁師達は海に出た時、どの島のどの山がどのような形に見えているかによって船の位置を測っていた。この山の線の見え方による測り方を「山をつなぐ」と言い、山をつなぐ時に沖から神島を見ると白い岩が鏡のように光って見えていたことから「鏡石」と呼ばれるようになった。

私なんかは鏡石の従来の説明に納得できていない節があったのだが、この伝承には非常に納得がいき、信憑性も頗る高いように思えてならない。そして、先述の「鏡がひかる」という表現から鏡石を連想できたのも、まさに「沖から神島を見ると白い岩が鏡のように光って見えていた」というこの話を知っていたからである。

鏡石は島の西側、「南田」か「打越」の辺りにあるから、地名としての「東山」とはかけ離れている。つまり唄中の「東山」は地名としての東山ではなく、灯明山を云っていることになる。もっとも鏡石は古里の浜に近いかなり低い位置にあって、厳密には「灯明山」の範囲内にも含まれないかもしれない。ただ、そもそも神島全体が灯明山を頂点とした一つの山と言っても過言ではないので、ここではほとんど「神島」と同義に近い、広い意味での「灯明山」が使われたのではないかと想像する。

 

「山」を含む地名であること、また灯明山の頂上が神島の中で東寄りに位置することから、本来地名である「東山」が灯明山を示す名称として拡大解釈され使われる場合があったのだろう。


字 大山

灯明山の南側斜面の山頂に近いエリアを指した地名である。村絵図には字野畑との境界線に重ねて道が描かれており、これを基準としていたようであるが、この道は現存しない。現在、監的哨が立地している他は全て森であるが、かつては一部が段々畑になっていた。灯明山は神島で最も高く、確かに大きい山であるが、その中でどうして限られたこの範囲が「大山」という地名を授かることとなったのか、よく分からない。

『郷土志摩』No.44 (1973年9月)内の「神島覚書」という文章に以下のような表現が出てくる。

瑞軒・河村義通(平太夫)がこの島に灯明台を築造し、当時の話では檜・栗二材を用い、大山山頂に築造した。

これは灯明台についての記述であるが、その名前からも分かるように灯明台は灯明山の頂上に築造されたものであり、ここでの「大山」とは灯明山そのものを云っていると言えよう。ただし渡辺崋山も『参海雑志』で「大磐石辺を根として大山を起す。これハ燈明山といふ。」と書いているように、この場合の大山とは必ずしも地名の字大山を意識していなかったかも知れない。

字大山にある監的哨
字大山にある監的哨

字 野畑

由来は分からないが、神島小中学校の体育館が建っている低地にはかつて田んぼがあり、水稲耕作をやめてからは畑となっていたという。もっともそれは大正昭和頃の話であるから地名の起源はもっと古いだろうが、文字通り「野」と「畑」が広がる場所だったのだろう。「野」の方は1964年の映画『潮騒』を見るとよく分かる。現在小中学校のグラウンドになっている辺り一面が、ニワの浜の不動石から続くカルスト地形の荒野となっているのである。なだらかな傾斜に、所々石灰岩の白が見え隠れする、まさに秋吉台のような光景が字野畑にはあったのだ。その「野」であろうと思う。

右端に見えるのが今も残るカルスト地形(不動石)
右端に見えるのが今も残るカルスト地形(不動石)
中央奥が古里の浜。手前の荒野が現在の神島小中学校グラウンド
中央奥が古里の浜。手前の荒野が現在の神島小中学校グラウンド

[上2点引用:映画『潮騒』(日活株式会社, 1964年, 主演:吉永小百合, 浜田光夫) より]

 

下の写真は字野畑にあるニワの浜の堤防(護岸?)にて撮影したものである。地名の書かれた方は、「字○○」ではなく「○○地区」となっている。

「神島町野畑地区離島防潮林造成事業」の石板
「神島町野畑地区離島防潮林造成事業」の石板

字 打越

『志摩民俗 下巻』(1969年3月)に「字「打越山」(ウチコシヤマ)の麓に「デキ皇子」の塚」があったと書かれている。デキ皇子塚は他の皇子塚(王子塚)からひとつ離れて南の山麓にあるのだ、という認識でいるのだけど、比定されている位置が資料によってまちまちなので困ってしまう。ただしこの資料は地名をしっかり示してくれているので、その点信用度は高い。

デキ王子塚というと、三島由紀夫の『潮騒』にも登場する古墳だ。

古墳はどこからどこまでという境界がはっきりしないが、頂きの七本の古松のあいだに、小さな鳥居と祠があった。」「その屍は何の物語も残さずに、美しい古里(ごり)の浜と八丈ヶ島を見下ろす陵に埋められたのである。

というのが、小説におけるデキ王子塚の説明である。

先述の『志摩民俗 下巻』によると「数十年前までは丸形の小さい塚のように残っていたが、五六年荒れが打つづいた時に、これらの塚も荒らされてしまい、今は塚形にはなっていない。」とのことであり、墳墓は失われたかに思われるが、5年後の1974年3月に発行された『神島(三重県)の生活と文化―中高生の離島調査―』には「神島で唯一の前方後円墳」としてデキ王子塚の写真が掲載されている。同調査にはデキ王子塚は「島で一つの平地に立地して」いると書かれており、その位置は字打越と字南田の境付近であると考えられる。『潮騒』で描かれた、また写真に写された老松は航空写真では確認できないが、今度神島に渡った時には、この辺りを捜索してみたいと思う。


字 南田 , 字 東田

文字通りかつて水田が存在したエリアである。山がちな神島の中である程度まとまった平坦地は北、西、南の3ヶ所あるが、北には集落が立地し、南は字野畑の項で述べたかつての「荒野」で、現在神島小中学校になっている。残る西がこの字南田、字東田の谷間で、僅かな平地を利用した水稲耕作がかつて行われていた地区である。

北、西、南の平地の中で最も広いのは南で、次いで西、北と並ぶ。実は集落の存在している北の平地は神島の中でも最も狭いのである。ではなぜに北に集落が立地しているのかということには、いろいろ訳があって、夏から秋にかけての強い南風を避けるためというのが有力な説だ。ところが、鎌倉時代までの集落はどうやら西の谷に立地していたらしい。字南田、字東田の谷である。『神島の民俗誌』(2004年, 東京女子大学)に「住み続けるには南からの風当たりが強すぎたため、800年前頃に現在の場所へ人々が移住したといわれているとあり、「神島町の漁村景観」(東京大学大学院森林風致計画学研究室)には「言い伝えによると、かつては西の谷に集落が立地していたようで地名にもその名残が残っている。 1200~1300s頃に北の谷に微地形に沿うようにして3つの部落を持つ集落が立地したらしい。とある。また、西の谷に近い古里の浜、古里岬などの地名はかつて集落があったということを示していると言えよう。

 

字南田、字東田に存在した「田」について、柳田国男は『遊海島記』で南の浜へ行くには細き径あり。径の両側に山の雫を堰き溜めて、わずかなる稲を植えたり。」と記している。彼が神島を訪れたのは明治32(1899)年のことだ。水田は西の谷と、南の谷にあたる字野畑の地内にも少々あり、神島全体では大正10(1921)年の段階で6反2畝あった。しかしそれが昭和2(1927)年には皆無となっている。なぜ田んぼが廃されたのかというと、それは雀による害が原因だったと云う。『郷土志摩』9号の「雀に喰われ田 -神島点描1-」(中村精弐)には穂は立派にできるんですがね。雀が、あなた、みんな穂を喰ってしまうのでねえ」との島民の声が出てくる。神島に特段雀が多いわけではなかったが、水田が狭いために餌の供給源が一か所に集中してしまい、被害が大きくなっていたという事情らしい。

 

水稲耕作を止めた後の跡地では里芋の栽培が行われたようだ。『三重県神島における農業の変貌 -離島における複合経済の構造-』(味澤, 1978)に以下のようにある。

「(前略)水田は現在は普通畑になっており、さといもが栽培されている。島の人びとの話によると、この畑はかって水田であったため、現在でも他の畑より水分が多く、さといものような比較的水分のいる作物がよくできると言われている。

 

現在ではその畑もほとんど耕作放棄されて、植物が繁茂し、それはそれは凄まじい状況になっている。特に字南田の方は、とても足を踏み入れられる様相ではない。字東田の一部では里芋畑に転用された後さらに何らかの養殖が行われていたようで(それも今は使われていない)、養殖用の水色の水槽が深緑色の雨水を満々と湛えて並んでいる。航空写真で見ると12個も水槽があるようだ。そして、その水槽の周りの僅かなスペースには、非常に小規模ながらも家庭菜園的な畑がある。道に近い畑では、昨夏はトマトが栽培されていた。

かつては水田があった字南田の谷
かつては水田があった字南田の谷
字東田の谷に並ぶ何かの養殖プ―ル
字東田の谷に並ぶ何かの養殖プ―ル


字 棒瀬

『神島の民俗誌』(2004年, 東京女子大学)に「ボーセ」に関する島民の証言として以下の3つが載っている。

(1)「鼻赤峠」を上る左側、畑がある丘のことをこう呼ぶ。漢字では「奉瀬」と書く。由来は不明である。

(2)「鼻赤峠」の横の畑の名前である。どういう字を書くのかは分からないが、かつては「ボーゼの畑に行って来る。」などと言っていた。

(3)「鼻赤峠」を上る左側の畑がある丘のことをこう呼ぶ。意味は分からない。

鼻赤峠を上る時の「左側」というのがどちら側なのか、上る向きが分からない限り釈然としないのではあるが、村絵図を参照すると、峠の西側の山塊のことを指していることが分かる。峠の西側には2つ丘があるが、棒瀬が指すのは島の西端に位置する、トノ鼻に繋がる丘の方である。集落側からの道順で考えると、”鼻赤峠を越え、三叉路を右に曲がって少し下ったところの左側”ということになる。反対に、古里の浜の方から向かうと考えると、”鼻赤峠を右に見るが通り過ぎ、少し下ったところの左側”ということになる。「鼻赤峠を上る左側」という表現はどうも理解できない。(2022年1月29日・一部修正)

ちなみに『神島の民俗誌』では、この「左側」を集落側から峠を上った際のものと捉えて、鼻赤峠の東側の尾根の一部に「ボーセ」を比定しているが、これは村絵図の描写とは矛盾している。正しいのは村絵図だろう。かつて島にたくさんあった段々畑の一部分のみに固有の名称が付くとは思えないし、「棒瀬」という海岸沿いで生まれた可能性が高そうな地名(村絵図において「字棒瀬」の文字が海岸に偏って書かれているのも気になる)が、峠を越えて山側で使わているというのも考えにくい。同誌における島民の証言は非常に貴重で重要なものだが、その比定地については誤っていると言わざるを得ないだろう。

船上から望む「棒瀬」の丘。手前はトノ鼻
船上から望む「棒瀬」の丘。手前はトノ鼻

井戸上(井戸ノ上)

その名の通り、井戸の上側一帯を指す地名である。井戸というのは「大井戸」と呼ばれた神島で一番大きい共同井戸のことで、地名の由来になるくらいだから、相当重要な存在であったと思われる。小説『潮騒』で水汲みの場面が描かれているが、その水汲みをした井戸もこの「大井戸」だ。別名を「重太郎井戸」と云った。現在は井戸はなくなっていて、正確な位置は分からないが、おそらく水源池(第一ダム)の下に沈んでいるのではないかと思う。水源池が出来たのは昭和28(1953)年のことで、昭和45(1970)年からはここの水を水源として家々に水道が引かれ、島内にも電気洗濯機・瞬間湯沸器・風呂が増え始めたという。鳥羽から海底送水管を通じた送水の開始は昭和54(1979)年を待たねばならない。

(参考文献:『ようこそ神島へ』)

 

かつて字井戸上の地内には八幡宮が建立されていた。現在の八代神社にあたる明神と並ぶ主要な神社で、村絵図にも描かれている。明治40(1907)年11月25日、八幡宮は島内にあった数多くの祠とともに合祀され、現在の八代神社となった。八代神社の神紋は「左三巴」と「丸に八の字」の二つがあるそうだが、後者は八幡宮の紋を受け継いだものだろう。近くの答志島では家内安全を願い魔よけとして、八幡神社の丸八の紋を家の玄関や壁、船などいたるところに書く風習があるが、神島では見られない。


中ノ山 (中之山)

八代神社の所在地である。由来は分からないが、シンプルな名前なので、集落から山を見たときの中央付近の意、あるいは東山に対しての中山ということか。まあ別に、そこまで由来を追求する必要がありそうな名前でもない。三重県神社庁教化委員会のサイトに、八代神社の鎮座地として「 三重県鳥羽市神島町1番地(字中之山)」との住所が掲載されている。

字中ノ山に鎮座している八代神社
字中ノ山に鎮座している八代神社

いやあ、思ったよりもまとめるのに時間がかかってしまった。もっと字が出てくる文献を羅列して終了!という感じにするつもりだったのだが、まあいいだろう。村絵図では、集落部分には地名が書かれていない。集落内は東セコ、中セコ、南セコの三つのセコの分かれていた。このセコが住所に使われることはなかったというが、しかし日常生活において、わざわざ集落内部を言い分ける、あるいは集落全体を指し示す「地名(字)」の必要性は薄かっただろうし、特に存在していなかったかもしれない。

 

集落に西隣する字はなんであったのか、残された課題であるが、まあ資料をいろいろ読んでいけば、そのうち自ずから答えに出会えるだろうと楽観視しておきたい。このエリアはかつては集落の外であったが、昭和時代に人口が増大するに伴って家々の波が押し寄せた。墓地はかつて集落の外れにあったというが、現在ではそれを取り囲むように全体が集落の範囲となっている。

 

そろそろ忘れられている頃だろうと思うので、冒頭の白地図を再掲しておく。

 

神島村絵図を基に作成した字マップ
神島村絵図を基に作成した字マップ

この白地図は明治時代の村絵図から海岸線及び字の境界線をそのまま抽出しただけのものであって、歪みが大きく、現代の地図と重ねることは出来ない。そもそも神島の地名を知りたいということで字を調べているわけだから、その範囲は村絵図上だけではなく、きちんと現代の地図に当てはめて比定されなければ意味がない。字東山から南西に伸びて字打越と字野畑を分けている境界線は、その位置に尾根筋があって確実に位置が特定できる。明治と令和とで道の変化はあれど、地形はほとんど変わっていないだろうから、そういう確実な所から当てはめていって、現代の地図上に字の境界線を再現することを次の作業としたい。

というか、それを先にやっておけよという話だ。字棒瀬の項など、地図で位置関係を図説しておきたかったのだが、今の地図に字棒瀬の範囲を比定できていないせいで叶わなかったのだから。

そしてさらなる疑問として、鳥羽市による告示の中で出てくる「字亀虎」「字乾」「字東山」の内、「字亀虎」「字乾」の所在が不明であるという点がある。今不明となっている字は村絵図にて判読できないものの、漢字2文字であろうと思われ、字亀虎がそれである可能性はある。が、では字乾はどこか。鳥羽市による告示は近年のもので、令和4(2022)年現在の神島に字乾、あるいは乾地区なる場所が存在しているのは間違いないと考えられる。ということは、村絵図が描かれた明治18(1885)年以降に字の変更があったということだろうか。その辺りも検討しなければならない。