知ること/竹橋町の水路について

中村区竹橋町。市立牧野小学校の記念誌にふるい写真が載っている。昭和2年、開校当時の写真である。

敷地の外から校舎を撮ったその写真には、学校の手前を横切る水路が写りこんでいる。その水路は結構幅が広い。はじめ、これは古川が写りこんでいるのだろうと理解していた。

 

古川は栄生から大秋を流れ牧野小学校のすぐ北のあたりで笈瀬川に注いでいた川である。具体的には駅西銀座通の1本南の道が川の跡である。この道が川の跡だと知ったのもかなり前のことだ。教頭先生がそういうのに詳しくて、直接聞いたか父を経由して聞いたかちょっと忘れてしまったが、とにかく小学生の頃からの知識である。

笈瀬通に真弓パーキングという立体駐車場があったが、そこはかつて真弓牧場だったという話も教頭先生に教えてもらった。今もある牧野小の北校舎と牧場の牛とが一緒に収まっている写真は衝撃だった。2020年、かつての真弓パーキングはビジネスホテルに建て替わっている。嗚呼、時代は変わる。

なお古川についての詳細は下のボタンから記事に飛べる。ご参考までに!

 話が逸れてしまった。それで水路のことだけど、駅西銀座通の1本南の道が川跡だと言った。

するとつまり牧野小との間にはもう1本道があるわけだから、古川は敷地のすぐ脇を流れていないことになる。この違和感に気付いたのはいつだか忘れてしまったが、疑問を持ったままでずっと放置してきた。解決したのは最近のことだ。

古川と牧野小学校の位置関係
古川と牧野小学校の位置関係

 

写真には校舎が写っている。そのため、同じく記念誌に載っているかつての校内の図と写真とを比べることで、どの方向から学校を写した写真なのか、また撮影位置までもを特定することができた。簡単なことであった。答えは。つまり水路は古川ではなかったし、牧野小の敷地の南に沿っても水路が存在していたのである。下の地図のように。

写真に写っている水路は学校の南側にあった
写真に写っている水路は学校の南側にあった

 

ではこの水路はどこから来てどこへ流れていくのか。

どこへ、というのはおそらく簡単である。すぐ東を笈瀬川を流れているわけだから、そこへ流れ落ちていたと考えるのが真っ当であろう。どこから。これが難しい問題である。この辺りは駅に近いため早くから市街化が進んでおり、地図を見ても見当も付かない。少なくともインターネットの中には、答えに繋がる情報は全くなかった。

 

しかしこの問題は2020年9月、中村図書館で手にした「名古屋都市計画史(図集編)」によって解決されることになるーーーというのが今回の話なんだけど、その前にもうひとつ。以下少し別な話題です。

 

 

太閤通に対してナナメの道が多い。いや、逆に考えれば太閤通だけがナナメなのかもしれない。

太閤通3丁目のあたりの道は他に比べて特徴的なパターンを示している。10本もの道が同じ角度で傾いているのである。これは一体何なのか、なぜこうなっているのかというのはずっと前に誰かしらと話した記憶もあるし、問題意識としてはずっと自分の中にあったと思う。米野井筋の存在とその流路を知ったのは小5の夏のことである。その流路はナナメの道のひとつ一致していた。だからナナメの道は、はじめから流れていた米野井筋を基準とし、それと平行になるように造ったのだと考えるようになった。

赤の点線が米野井筋の流路。それと平行するようなナナメの道がたくさんある
赤の点線が米野井筋の流路。それと平行するようなナナメの道がたくさんある

 

2020年9月12日、土地宝典に載っていたこの範囲の地籍図(昭和9年)を目にした。

その地籍図を見たときは声が出るほど驚いたし感動したし、知りたかったこと知らなかったことが詰まりすぎていて、嬉しかった。この地籍図からいろんなことが分かったんだけど、ナナメの道についても重要なことがわかった。今ナナメの道があるところには、ひとつひとつに用水が流れていたこと、そしてこの区画がここが田んぼだった頃からあったということ。むかしからあったのだから、区画の基準となったのはやっぱり米野井筋だろう。ナナメの道の正体は用水路だった。下の画像の青で囲ったあたりである。

土地宝典[中区(旧制)/昭和9年]に筆者加筆。黒が水路
土地宝典[中区(旧制)/昭和9年]に筆者加筆。黒が水路

 

しかし。地籍図は北が途絶えていて、ナナメの道と同じように平行して流れている用水が、どこから流れてきていたものなのかが分からない。発見があればそこには新たな疑問が必ず生まれるものである。果たして地籍図の外側、用水の上流はどうなっているのか。この疑問、どうにかしたーい!!

と思っていたその数週間後ーーー

2020年9月、中村図書館で手にした「名古屋都市計画史(図集編)」によって疑問は解決されたのであった。

 

下の地図は「名古屋都市計画史(図集編)」に収録されている「名古屋都市計画建物用途別現況図」大正9年のものである。

名古屋都市計画建物用途別現況図/大正9年
名古屋都市計画建物用途別現況図/大正9年

 

そしてこの地図の該当部分を拡大したのがこれである。

名古屋都市計画建物用途別現況図(部分)
名古屋都市計画建物用途別現況図(部分)

 

 

お分かりだろうか。

古川のすぐ南、米野井筋からの分水が(南に下がりながら)横一直線に流れていることを。

ナナメに平行して流れる水路たちにはそこから水が供給されていることを。

そして!

横一直線のこの米野井筋からの分水こそ、牧野小の敷地の南に沿って流れていた、写真に写り込んでいたあの水路であることを。

だって、道の向きが一致するんだもの。牧野小の南の少し左肩上がりのあの道と。そしてあの幅。ナナメの平行水路たちに分水していてもおかしくない幅。完全に黒、これしかない!

 

こうして僕が抱えていた2つの疑問はこうして一挙に解決の日を迎え、それは不意に訪れた瞬間だったが、だからこそうぉぉぉおおお!!!っていう高揚。この地図、すげー水路正確じゃん。すげー細かいじゃん。すげー!今よく見たら好太郎の方も分水地点から書いとらん??は、やば。そういう思い。発信するのは難しいし、伝えるのも難しいし。でもやっぱり知るって最高だよね。さぁて、この話、次の100周年の記念誌には載るといいなぁ〜。以上!!

 

 

p.s.

水路の位置。基本的には牧野小南の道の向きをそのまま西へ米野井筋にぶつかる地点まで延長していけばいいのだろうけど、やはりその前にもう少し詳細な地図でも確認しておきたいものである。ひとまず、市政資料館にある則武耕地整理組合の確定図に期待したい。そこになければ愛知県公文書館にある明治時代の地籍図か。暗渠マップへのプロットはまだ先になりそうである。しかし面白くなってきた。

 

さらに追伸

この水路を仮に庄内用水米野井筋中田分水と名付けることにします。竹橋町というのが今の地名なんですが、昔の字名に竹橋というのは存在してないんですよね。それで由来もよく分からない。まあこれはまた別の話になってしまうので、これくらいにしておきますが、中田というのが竹橋町成立前のこの辺りの大きい地名だったわけです。ということで中田分水(仮)です。