土曜日、市政資料館で見てきた「旭耕地整理組合確定図」。
旭というとどこか検討つかないけれど、中村区の下米野、黄金の辺り。資料は2つあって、ひとつは白黒、ひとつはカラー。そして白黒の方には「目下全地区工事施行中ナリ」とあるため、おそらくそちらは工事前の計画図、そしてカラーの方は工事後の最終的な状況を地図にしたものだと考えている。
またこれは白黒の地図と最終的な地割りとで異なる箇所がいくつかあること、そしてカラーではそれらの変更が反映され、描かれた道も現在と一致していることからも言えると思う。あと、白黒の地図には現在その痕跡が残る高須賀悪水(仮)に相当する水路が描かれていない。
白黒の地図には非常に多くの水路が描かれている。そしてその全てに名前が添えられている。全て、である。いままでにこんな地図に出会ったことがあったろうか。初めて見た瞬間はある種の感動を覚えた。米野井筋は米野用水本溝、徳左川は徳左排水本溝、徳左川の支流は徳左排水支溝、北一色村用水(この名前は江戸時代の村絵図を参照したものであるから、明治以降の統一名称についてはいまだ知りえていなかった)は上流部が長良北一色用排本溝、そして下流では長良用排本溝と北一色用排本溝という名前になっていた。後者がこれまで北一色村用水支流としていた水路のことである。
これらの主要な水路の他にも、描かれた全ての水路に名前が付いているわけである。小渠第○○号といった具合である。しかしながら、先述のように白黒の地図と現状には異なる点がある。そしてカラーの方の確定図とも異なる点がある。この耕地整理は大正12年から昭和16年にかけて行われたものであるから、その間に鉄道用地が拡大するなど状況の変化もあったろう。カラーの地図はおそらく耕地整理が終わった段階での地図だと推測しているが、この地図で描かれた水路は白黒の地図で描かれたそれに比べて非常に少ないのである。白黒の地図で水路とされている箇所が、カラーの地図では道になっているというのも少なくない。はじめは水路があり、市街化に伴いその敷地を道路に転用していったという可能性もあるが、カラーの地図はあくまで耕地整理の確定図。つまり「白黒の地図に描かれた水路が実際にすべて整備されたかは分からない」のである。
1947年の航空写真で確認しても、白黒の地図にて水路として描かれた多くの箇所は道になっている。
最初から整備されなかったか、整備されたが昭和16年までの間に道になったか、その際埋め立てられたのか、あるいは暗渠化されたのか。最後のところは画質の悪い航空写真からは読み取ることはできず、大きな疑問が残されている状況だ。
とはいえ、ひとまず白黒の地図に描かれた水路を正しく把握しておく必要があると感じたので、撮影した画像を原図にOOMにて水路の部分をなぞって可視化する作業をした。そうしてできたのが以下の地図である。
大発見があったのはこの作業中である。
やはり特に網羅してみる必要がない場合、全部を見たと思い込んではいてもやはり目を通していない場所があるものである。この作業をしなければ気付くことはなかったかもしれなかった。
勘右排水本溝。
鳥肌が立った、声が出た。先日から何度も目を通していたのに気付かなかった!という驚きもあったが、それ以上にやはりもっと純粋に名前を知れたことへの驚きと嬉しさである。そしてその名前が小渠第○○号というような機械的なものでなかったというのも大きい。勘右、といえば人の名前であろう。徳左川の安井徳左ヱ門のように米野村の人物でこの水路の開削か改修か何かに関わった人物がいたのだろうか。いや、全く違った由来かもしれない。しかしいずれにせよ歴史を感じる名前であることには間違いないし、これまで米野悪水(仮)としていたことを思えば水路に対しての印象も変わったように感じる。
ちなみに勘右排水本溝の上流部にあたる水路には勘右用排本溝と名前があった。下米野の集落から下流は排水に徹していたということであろう。白黒の地図の描かれ方では2つの水路が一体となって接続しているようには見えないが、名前が同じということはひとつの流れで耕地整理前から存在していたことは間違いない。その上流部は牧野村か、上米野か。興味の矛先はより深く、より細かい地点へと目標を変えてゆく。ちなみにこの名前、排水本溝というのは耕地整理の際につけられた名前だろう。徳左排水本溝の本来の名前が徳左川であることを考えれば、勘右排水本溝も勘右川としたいところだ。ひとまずは暗渠マップの名前は勘右排水本溝としておくけれど、この確定図以外の資料で勘右の名前に出会う日が来ることを強く祈念したい。
追記 2020/09/29
昭和9年、旧制中区の土地宝典に収録されていた「旭耕地整理図」。すっかり存在を忘れていた。
以前これを見たときは水路を示す黒線の幅が微妙で、そしてほとんど全ての区画にその線があるものだから、これは本当に水路なのかと疑っていたのだった。しかし市政資料館で見た資料と照らし合わせれば、それが水路であったことは確実である。
市政資料館で見た旭耕地整理組合確定図には2つあるといった。非常に多くの水路とその名前が描かれているが区画など実際とは違うところがある白黒の地図、区画など現在と一致するが描かれた水路は白黒に比べて少ないカラーの地図。そしてこれは昨日の今日で今見たから言えることであるが、土地宝典に収録されている旭耕地整理図は「2つの地図の間」みたいな地図であった。ハイブリットタイプである。つまり、区画は現在と一致(具体的には、鉄道用地の範囲や長良北一色用排本溝の流路などである)しており、かつカラーの地図では道として描かれていた場所も多くが水路として描かれているのである。白黒の地図になかった高須賀悪水(仮)の水路も描かれている。「白黒の地図に描かれた水路が実際にすべて整備されたかは分からない」という課題に関してはこの「旭耕地整理図」でひとつ解決に近づいたと言っていいだろう。
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