無類の暗渠好き?

「片手袋研究入門」著者の石井公二さんという方のツイートを偶然拝見し、ブログを読んで何となく頭の中に浮かんだことの一部分。

 

 

仮に名古屋の暗渠に詳しい人が既にいて、暗渠マップなんか描いていたら、僕はこんなにも暗渠に没頭しただろうか。

いま、この半年くらいで急激に詳しくなって、暗渠という視点で名古屋を見た時に、僕はおそらく最も知識があるように思う。

 

でも他に先駆者がいなかっただけで、僕の知らないことはまだ幾らでもある。

仮に東京に住んでいたとしたら、東京の暗渠についてTwitterで解説を語っているだろうか。

東京には、本田創さん(@hondaso)がいらっしゃる。既に。圧倒的な積み重ねと知識の前で僕は、どう暗渠を好きでいただろうか。

 

 

名古屋においては、僕の新発見は世間の新発見だ。世間というのはその価値を知る人々のことで、書籍やインターネットで共有されていない事柄、これが新発見である。僕は知る喜びを感じる。知っていくことこそが、僕が暗渠を好きでいるということであり、そこにはある種の使命感もある。

僕が知らなければ、記録に残さなければ、共有しなければ、他の誰も代わりになる人はいないだろうと。今ここにある暗渠に、川の痕跡に、みんながスルーしてきた景色に、価値を見い出せていることを嬉しくも思う。

 

東京だったら、どうだろう。僕がなにかすごい!と思うものを見つけたとして、でもそれは何年も前に誰かが同じように見つけ、共有済みかもしれない。本田さんの暗渠マップ、あれはもう圧巻としか言いようがないし、尊敬の念すら抱く。しかしだからこそ、あれを見た後に東京の暗渠をプロットしてみようなんて考えない。追いつけないし、仮に追いついたとしても同じものが出来上がるだけである。同じように、桃園川について詳しくなりたいとも思わない。いや、正確には詳しくなりたいと思っても、暗渠マニアックス・吉村さん(@nama_kaeru)の本や文章を読むだけに留まると思う。

 

だってそれが素晴らしいから。

誰かが辿った道を、後からなぞる。解答は全部揃ってる。解説編も出版されてる。楽しい?どうだろう、分からない。

 

 

純粋に暗渠を好きでいたいと思う。そうであれば、こんなこと考えなくて済む。でも今思った。そもそも好きじゃなければ、使命感も生まれないよね。行きたい、じゃなくて、行かなきゃ、でもいいよね。

東京だったら、使命感は生まれない。行かなきゃ、なんて、別に僕が行かなくたって他の誰かが写真を撮り歴史を調べ、そして本にブログに書いてるさ。じゃあ行かなくていいや、いや、やっぱり見てみたい。そこにあるのは純粋な好き!でも、発見する喜びも、自分だけという特別感もない。幸い僕は名古屋に住んでいるから、名古屋の暗渠を対象にしていける。日々新しい発見ばかりである。

 

いま、名古屋で他に暗渠好きが現れても、大歓迎だ。その余裕は、僕にそれなりの知識がある、ただそれだけのことに依っている。もし僕が暗渠を好きになった時、今の僕のような人が既にいたら、名古屋暗渠マップなんて公開していたら、よーし調べてみよう、となっただろうか。好きでい続けられただろうか。

まぁ、まだその域に達していないかも。

しかし取り敢えず、知ることを楽しんでる人に知識を押し売りするような真似だけは、絶対にしないよう気を付けよう。